Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0805

 「よくわかりません」という祈りの声だけが虚空を満たしている。

 計算はそれを実行する基体に依存しないということが、われわれが世界に触れられないことの証明になりはしないか。証明というのは嘘で、いつものことながらこれは喩え話なのだけれども。言葉を換えるとつまりこういうことだ。「解釈」は世界に触れているか。もちろんなんらかの意味で触れていると信じること、つまり世界が在るということを信じることはできる。しかしわれわれに与えられるのはどこまでも解釈であって、解釈こそがわれわれそのもので、つまり一元的な〈感じ〉があるのにすぎないという意味では、やはりわれわれの手は世界に届かないというほかないような気がしている。計算機の上で実行されている計算は、計算機そのものに触れない。たとえ触れているように見えたとしても、実際には計算機に触れられるのは計算機自身だけなのである。同じことはきっとわれわれについても言える。ここまで書いてふと気付いたのだけれど、これは自由意志は存在しない、少なくともわれわれには帰属しないという主張と同じだ。

 しかしだからといって失望する必要はない、とも思う。たしかにわれわれの心は世界に触れていないけれども、われわれ自身は世界の部分なのである。


 「このように考えざるを得ない」圧が一定以上に高まってくると、言葉はだんだん硬度を増してきて、互いに押しのけあったり、ぶつかって壊れたりするようになってくる。こういう高圧条件下での言語使用が、これまで「理性」という言葉によって言い表されてきたのだろう思う。しかしそうした圧力を作り出すのは結局のところ気持ちであり印象である。論理に人を説得する力はない。すでに論理に説得されている人だけが、論理によって説得されるのである。

 言葉に高圧をかければ相転移が起こって真理が現れるのではないかという思い込みが在る。しかしそれは思い込みに過ぎない、と僕などは思う。さて自分は今いったいどこに立っているのか。


 最近バイト先に入社してきた統計物理出身の人とよく馬鹿話をするのだけど、君が金子先生と話したことないのは残念だと言われた。もしかして僕にはその手の適性があったのかもしれない。ただ確かめたい気持ちはそれほどない。

 MS COCO Challengeに出ます(たぶん)。


 昔は素朴に真理を信じていたから異常な基礎付け主義者だったけれども、最近は文法主義者に鞍替えしたので、基礎付けというものにはそれほど重きを置いていない。身体に最も馴染みやすい操作を「基礎」として考えるくらいがちょうどよいと感じている。だいたい、基礎付けなんてものはある程度分野が発展した後に一呼吸置く感じでなされるものと相場が決まっているのである。基礎とはすべてをその上で考えねばならないような種類のものではないのだ。

 本質ではなく使いみちを見出していこう。

0801

 ヒューム『人性論』を読んだ。「世界について知ることはけっきょく自分の中にあるものを知ることに過ぎないのだ」というこの失望を、はるか昔の哲学者がすでに味わっていたということ。逆説的ではあるけれど、なにか勇気付けられたような気持ちになる。とにかく、すごい本です。

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0729

 ある状況においてそのルールが適用されうるかいなかを決定する必然的な規則は存在しない。たとえば法律はそれ自体で人を罰するものではなく、それを適用する仕組みがあってはじめて機能する。そして「ある状況」はつねに恣意的だ。この世界のカテゴリには「殺人」の項目はなく、ただそれを殺人とみなすわれわれからしてそれが殺人であるのにすぎない。ゆえにルールは説得と納得の俎上に成立する。ある意味で、ルールとか正しさとかいったものは社会に落ちているバールのようなものだ。それを道具として使えることを知っている人が、それを使って敵を殴ったり己を律したりするのである。もちろんバールそれ自体は誰かを殴ったりしない。

 ルールが道端に落ちているバールのようなものであることを誰もが知ってしまったとき、ルールは(今までのような意味では)ルールでなくなるだろう。というのも、そのとき人はバールで殴られることに痛みを感じなくなっているだろうから。はやくそうなればいいのにと思う。


 自覚とか反省とかいった事態について考える。結局のところ自覚もまた無自覚になされるのであって、そういう意味では自覚的な行為と無自覚の行為に本質的な違いはなく、たんに奥行きの差が少しばかりあるのみである。奥行きのある存在でありたいと思う。世界に対しよりきめ細やかに応答すること。


 風を感じたときつねに「この風は私が吹かせた」と感じる人がいるとすれば、彼は実際に風を吹かせたのだ。どちらが先かは問題ではない。というのも、行動決定と意志の自覚では、前者のほうが先に起きていることが知られているのだ。そしてこの喩え話は「風」を「思考」や「知覚」に置き換えても成立する。

 この喩え話は4年くらい前にふと思いついたものだけれど、わりと気に入っている。自分の輪郭があやふやなものであることを思い出させてくれるから。この喩え話を内向きに適用していくと、〈私〉はどんどん収縮しついには大きさのない点になる。また外側に向かって押し広げていくと、〈私〉はどんどん拡大しついには世界に一致する。独我論実在論が一致するゼロポイント。まあただの喩え話なんですが。


 あまり言葉を使わない生活をしているせいか、内面がますます視覚的になってきている。かつては言葉によって把握されていた気持ちが、いまでは風景として見えるようになっている。「意識とは自分が話すのを聞くこと」というのはデリダの言葉らしいけれども、僕の意識は「自分が描くものを見る」ことになりつつある。言葉を持たない生き物は、たぶんこんなふうに考えているのだろうと思う。

 思考というものは、抽象化してしまえば、それがそれ自身に影響されることによって進行してゆくような形をしている。言葉で考える人は、自分の言葉を聞くことが次の言葉を促すような形で考えを進めてゆくのだろうし、イメージで考える人は、自分の描いた絵を見ることがその絵に変化をもたらすような仕方で考えを進めていく。媒体になるものはおそらくなんでも良い。触覚や嗅覚で考える人もあるのかもしれない。おそらくもっともコンパクトなのは言葉なので、言葉で考えるのが今のところ飛距離を稼ぎやすいのだとは思うけれど。で、この媒体がたとえばVRなどで表現できようなったとしたら、人間の思考はどこまでいくだろうかと考えていた。言葉より抽象的で、イメージよりも具体的な思考が、どこまでも続いてゆく。より高度な自我のかたち。そんなことができるようになるかもしれない。もちろん、すでに心の固まってしまった僕には無理かもしれないけれども、新しく生まれてくる子どもたちならあるいは。とか。

 というか言語というのは本質的にヴァーチャルリアリティである。神林長平的な発想。


 「言葉を理解するのに言葉は必要ない」ということはとても重要だと思う。


 ニューラルネットはエネルギー最適化問題と同じ形だとか言われているけれど、生物が効率よく代謝するために今まで進化してきたのだと考えればこれはすごく自然なことのように思える。つまり僕らの知能はちょっとひねくれた代謝系なのであって、それは迷路を解く粘菌の素朴な延長線上にある。適当なことを書いているのでどっかからか槍が飛んで来るかもしれない。

 知能というものは究極的には楽をする能力として測るのが良いのかもしれない。じっさい周囲を見渡せば頭の良い人ほど怠け者である。


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0718

 すべての言葉が詩になる特異点

 砂漠の真ん中で星を見るのが夢です。

 「私は見ている」という表現は「彼は見ている」と対比されてはじめて意味を持つ。そうでないならただ「見ている」で良いし、より正確には、それが見えたことによる行動の変化があれば良い。動物はそうしている。ある意味で「私」には内容がない。チェスの駒にかぶせられた紙の冠が「私」である。

 認識についての認識はおそらく「他の個体の認識」つまり「彼が見ている」が問題になるような生物にしかないのだろうと思う。たとえば猫なんかは「私」という表現を持っていない気がする。ふと"All Cats Have Asperger Syndrome"という本があったなと思い出した。統計をとったわけではないのでアレだけれど、独我論的傾向を持つ人間には自閉症スペクトラムが多い。心のなかで「他者」が占める領域が狭いぶん、「私」という表現が浮いてしまっているのではないか、それゆえ「私」が強い興味の対象になるのではないかというのが僕の想像である。ほんとかどうかは知らない。最近ようやく「青色本」における独我論の議論を肌で理解できるようなってきた気がしている。

 思考実験はなぜ成立するのかという問いに対して、多くの人は「われわれの知性が世界の良い近似になっているから」と答えるだろうと思う。でも僕はあえてこう答えたい。「われわれが世界を知性化しているから」。思考実験とはいわば文法的考察なのであって、つまり僕らは僕ら自身が描いた世界を分析している。だからそれは、本来的に近似などではない。(最近同じようなことばかり書いている。)

 フランシス・ベーコンに対してはそれほど注意を払っていなかったのだけれど、レポートの関係でノヴム・オルガヌムを読んでいて次の文章に出会い、少し親近感が湧いた。「人間の感覚が事物の尺度であるという主張は誤っている、それどころか反対に、感官のそれも精神のそれも一切の知覚は、人間に引きあわせてのことであって、宇宙から見てのことではない」。「宇宙から見てのことではない」というのが良い。すごく良いと思う。

 人間の相貌の認知に長けた人間をsuper-recogniserと呼ぶらしいのだけど、試しにweb上の簡易テストを受けてみたところ、どうやら僕はそれに当てはまるらしい。人の顔を見分けるのは苦手だと思っていただけに驚きが大きい。

 なぜ深層学習が上手く行っているのかという問いに対するもっともそれらしい答えは、「これはニューラルネットによるニューラルネットの模倣だから」かもしれない、ということを考えていた。われわれにとって〈対象〉となるようなものというのは結局、脳が自然な学習によって獲得できるような抽象なのであって、だから脳を模倣したアーキテクチャが人類の模倣においてlocal minimaに陥らないのは当然と言えるのではないか。

 人間の認識における再帰性についての雑感。人間の再帰性は、人間が幾つかの閾値(分節線)を備えた確率的なモデルであって、どんな入力に対しても自分の知っているもののうちのどれかであると応答することに拠っている。

 最近また言葉が自走しがちになっているので気をつけないと。

0709

 世界に意味を見出すことは、世界にその使用法を見出すことでもある。だから世界の解像度を高めることは、願いと意志の精度を高めることでもある。

 「われわれの語は「意味」という表現をもっている。ただそれだけのことがわれわれを誤らせてしまう。われわれは規則が規則でないものに対して責任があると考えてしまう。しかし、規則はただ規則に対してしか責任がない」(ウィトゲンシュタイン

 僕らは意味や理由という言葉をあたかもそれらが現実に対する本質的な接近であるかのように捉えてしまう傾向性をもっている。真理に近い概念と真理から遠い概念があるかのように考えてしまう。もちろんそのように考えることが直ちに問題になるわけではない。哲学するような場合を除いては。

 僕らは現実世界と言語世界とを別の層のものとして考えがちだけれど、おそらくそれは正しくない。言葉や規則とモノ・対象は同じレベルの存在者だ。意味と規則が現実に対して負っている(とされる)責任は、いわば林檎が蜜柑に対して負っている責任と同じもので、それは結局のところ文法的責任である。世界に対し真に責任を負うものがあるとすればそれは文法だけだ。そしてここにおける「責任」とはもはや僕らが一般にそう呼ぶところの責任概念ではなく(というのも文法の内側から見て文法は恣意的なのだ)、世界がそれ自体に負っている責任、いわば自然法則に等しい。起こっていることが起こっている、以上。意味は蒸発し、本質の死体が転がっている。

 ブーヴレス「(略)わたしたちが「事実」と呼んでいるものを見るようわたしたちに教えたのが、まさに文法なのだから。しかし、その「事実」を文法に依存しないものとして、文法をまたずに存在するものとして見るよう教えたのも文法である」。会心の表現という感じがする。

 僕にできるのは新しい喩え話を作ることだけだ。

 先日、大学に卒論概要を提出しました。内容は全然煮詰まっていないけれど、きちんと締め切り前日に持って行ったという点では自分を評価したい。以前の自分なら締め切り二分前とかになっていたと思う。論文自体もこんな感じで進むと良い。

 自由意志なんてなくとも頑張ってゆこう。

0702

 パラメタ数の多いニューラルネットほど悪い局所解に陥りにくいという話をバイト先の上司にしていたとき、彼がこんなことを言っていた。「結局のところ社会主義よりも資本主義がうまくいっているのは、単に変数が多いからではないか、とかつて考えたことがある」。一見シンプルなシステムのほうが合理的で効率的に思われるけれども、その実、複雑なシステムのほうが、抜け道が多いぶん、より良い落とし所を発見できるのではないか、という考えだ。割と有用な認識なのではないかと僕も思う。

 話題になっていたので、僕も「帰ってきたヒトラー」を読んでみた。イデオロギーのある知能の高い異常者としてのヒトラーのキャラクタは個人的にかなりツボで、とても面白かったのだけれども、それはそれとして、インターネットでの評価が「笑いつつもゾッとした」の一辺倒だったことは少し気にかかっている。なんというか、人々はナチスドイツを道徳的側面からしか批判できていないのではないか、という印象を受けたのだ。道徳や倫理が時代に相対的なものであることを考えると、これは十分ではないと思う。ヒトラーの危険性は、彼のイデオロギーや倫理的傾向にあったのではなく、むしろ彼がきわめて大きな人気を獲得したことそのものにあるのではないか、と僕は思っている。別の言い方をすると、それは社会が過度に単純化してしまったことによる問題なのだ。たぶん民族とか戦争とかいった道徳的な面は本質的ではない。たとえその核になるものがいかに健全な思想に思えようと、社会の極端な一体化はこの手の危うさを孕んでいるのだと思う。悪い解に嵌り込む可能性に(ここでの「悪い」は道徳的なものではなく省エネ的観点からのものです)。

 というようなことをつらつら考えていた。つねに適度な捻くれ者でありたいものですね。そんなことより卒論準備。

0618

 Chainer-SegNetを実装してみた。max_pooling_2dのbackward_cpuを参考にして書いたupsamplingがやたら遅かったので、ちょっと頑張って高速化。1桁くらいは速くなったけど、まだやりようはありそう。副残物としてpoolingのbackward_cpuも同じくらい高速化された。まあ今時CPUでニューラルネット動かすことなんてあんまりないからアレなんだけれども。そろそろCUDAに入門する頃合いか。

 書きたくなるまで書かないこと。

 今更だけど、僕みたいな人間には「Xをする」ではなく「Yをしない」という形の目標を立てるのが向いているのかもしれない、と思った。

 〈私〉は一粒の素粒子だ、と考えることはできないか。その素粒子は、僕の身体が形作るある偏り(場みたいなもの)の中に浮かんでおり、その素粒子の取りうる状態は、僕の身体的偏りに「対応」している。つまり、身体というマクロな非実在的偏りを、ある〈一個のもの〉に写し取ることができる。それが魂の起源なのではないか。似たような状況にある素粒子は無数にあるはずなので、ある身体は非常によく似た魂をたくさん備えていることになる。という妄想。