Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1026

 強化学習では長期的な報酬の最大化の困難さが問題になっているけれども、人間でも同じことが言えるはずである。つまり報酬はできるだけ短いタイムスパンで明確に与えた方がよい。先日久しぶりにタイピングゲームをやっていてそれを実感した。ためしに細かい目標を設定してそれをクリアできるか否かのみに注目し練習してみると、わずか数回の試行のうちに、今までvarianceの大きかった運指がみるみる安定しはじめたのである。目標を設定することの価値を今まで小さく見積もっていたところがあり、そうした考えを改めるきっかけになった。

 思うに、学習というプロセスは基本的に短期的に行われる。誤差逆伝播法を行うためにはインプットを保持しておく必要があるからだ(幾つかの理由から大脳では誤差逆伝播は行われていないと言われているけれど、バイト先の上司(彼は元理研BSIの研究員である)が大脳皮質の6層構造はbackpropを実現するために存在しているという(ちょっとトンデモな)仮説を提示しており、僕は割とそれを信じている)。だからある認知-行動の結果が良いものであるか悪いものであるかという教師信号はできるだけ即座に与えられた方が良い。依存的行動はまさにそのように形成される。また報酬はできるだけ明確であるべきだ。これはやってみた実感なのだけれど、タイピングの場合はスコアタイムよりも正確さの方が良い。おそらくタイムは運に依存する要素が大きいからだと思う。できるだけコントローラブルなものに対してはっきりした目標を設定すること、そうしてはじめて脳は「なにが良かったのか/悪かったのか」を理解することができる、ということなのだと思う。

 問題は長期的な行動戦略の学習はどのように行われるのかということだけど、これも結局は短期的学習の枠組みの上で行われるのだろうと僕は考えている。たとえばある行動がしばらく後で悪手であったと分かったとする。この時点ではその人の行動政策関数はアップデートされない。このとき行われるのは、この行動は悪手であるという観念連合の形成である。実際に政策関数が更新されるのは、その人が次にその悪手を選択したとき(つまり失敗したとき)である。しまった、というネガティブな報酬がまだ脳内に保持されている行動評価に影響する。必要なのはその行動を行う直前あるいは直後にそれが悪手であることを思い出すことであり、反省のない人が、つまり自分の行動を観念化して評価することをしない人物(つまり僕みたいな人)が同じ失敗を繰り返すのは、要は本質的な学習がちっとも行われていないからなのだろう。「あの時のあの選択はまずかった」としばらく経ってから思い返すのでは、人は進歩しないのである。

 目標を立てて練習することの重要性はよく言われることだし、何事につけて上達の早い人達というのはそういうプロセスを知ってか知らずか踏んでいる人たちなんだと思う。ただ僕はなにをやるにつけて理由付けを必要とするタイプの人間なので、動機づけとしてこういう仮説を立ててみた。あながち的外れでもないんじゃないかと思う。

 二年前と比べて、僕の視界はずっと鮮やかになったと思う。それはおそらく、鮮やかな視界を「良いもの」として意識化したことによるのだろう。適切な段階を踏めば一次視覚野だって再トレーニング可能だというのが僕の感覚である。より良い局所解を目指して歩いてゆきたいと思う。


 経験が可能であるためには経験に先んじてアプリオリな直観形式が必要であるとカントは考えたけれども、時空間という形式もまた学習可能なんじゃないかなと計算機を見ていると思う。世界の自由度を効率よく表現しようとしたら時空間という特徴量が得られました、みたいな。その表現の効率性はおそらく身体に規定されているから、そういう意味では先験的と言って良い気もするけど、でもまあたんにそれだけだよねとも思う。そしてまたその身体というのも、熱死に向かう宇宙の歴史の中に生じた偏りの泡沫にすぎないわけで。ところで物理学には詳しくないからこれはただの門外漢の妄想なんだけれども、世界というのは連続したひとつのエネルギーなんじゃないかという気がしている。atomは独立した実在ではなく、エネルギー最小化のひとつの解として存在するのにすぎないのではないか。というか波動関数が云々とかいっていたのはつまりそういうことだったのかな。エネルギーが先か、物質が先か。式の上ではどっちだって同じことなのだろうけれども、〈私〉の不思議さに僕が納得するためには、前者でなくてはならないような気がする。マッハ、あるいはパースもそういうふうに考えていたのではないか。もちろんこれらも「書けただけ」なのだけどもしかし。いつかちゃんと物理学を勉強したいですね。でもそのいつかは決してこないだろうという予感もある。僕はめんどくさがりですからー。

1016

 自分には多少のアレキシサイミア傾向があると思う。アレキシサイミアとは自分の情動を認識することが不得手な性質のこと。そしてその欠陥を、観察によって補っているところがある。たとえば自分は絵を描くことが好きだと思う。でもじっさい絵を描いているときには、絵が楽しいなんて気持ちは一切ない。ただ無我夢中で絵を描き続けている自分を観察して、どうやら絵が好きらしいと認識しているのにすぎない。みんなそうなのだと思っていたけれど、どうやら多くの人たちはそうではないらしい。その違いが何に由来するのかはよくわからない。Wikipediaには脳の半球同士の連絡が鈍いのではないかという仮説が書かれていた。昔から自分は言葉とイメージの連絡が悪い気はしていて、だからまあやっぱりその辺に理由があるのかなとは思う。女性よりも男性のほうが脳梁が細いらしく、そして自閉症というのは極端な男性脳であるという。そう考えると、僕の脳の統制の取れなさについても納得がいく。僕の脳の各部位はてんで気ままに働いている。他の部位に邪魔されないおかげでそれぞれの能力は高い。でも上手に使えない。困った。で、情動と高次意識野との間に直接のホットラインが引かれていないために、僕は外から見える情報だけをもとにして自分の気持ちを推察しなくちゃならない。ということは、実際に行動に移るまで自分がそれを好きか嫌いかわからないということであり、とするともしかして僕のある種の衝動性はセルフモニタのひとつの手段なのかもしれないという仮説が浮かぶ。しかし現実というのはなかなか後戻りが効かない。体験版がもっとたくさんあればいいのにと思う。大学生活お試し体験一ヶ月、とかね。それとも何かはじめる前に自分の反応を予測できるようになればいいのかな。これはある程度は得意になってきてると思う。おかげさまで何もやらないうちに想像で満足できるようになってしまった。困った。普通の人たちはいったいどのようにして意志決定をし、なにかを好きだと言っているのだろう。すべての人は本質的に僕と同じであって自分の気持ちをそれほど正確に把握しているわけではなく、ただそれを疑わないだけなのだ、ということは考えられる。そもそも気持ちというのは解釈の次元にしか存在しないものなのであって、このこと自体は脳梁の太さなんかと関係ないと思う。つまり僕とその他大勢とで情動認識の質が完全に違うわけではないんだろうってこと。ただ彼らの気持ちは高次意識中枢により強く作用して、意識にもっと抽象的で複雑な願望を抱かせることができる。疑いの気持ちなんて一切浮かばないくらい高度で巧妙で力のある嘘。自分にもそういう気持ちがあれば楽だったろうになあと思う。私にもただ一つの願望が持てるならー。なんか文章が支離滅裂になってきた。つかれた。

1015

 卒論がなかなか書けないので焦っています。内容自体は大筋で決まっていて、喩え話もたくさん用意してあるのに、なかなか筆が進まない。計画的に少しずつ書いてゆけば良いのだと言葉の上では思うのだけれど、心の底ではこれは「一気に書いてしまう」べきものだと感じている。そしてそのためにはまだ何かが欠けている気がするのだ。その種の欠落が有限時間内に埋められた経験などないわけですが。なやー。

 「眼には見えないが、神的理性だけが見抜くことができる真の深遠なアナロジー」(数学について、ポアンカレ

 そういえばウィトゲンシュタインは書き連ねたメモをあとから編集する形で本にしていたという。たぶん僕にもそういうやり方が向いていると思うのだけど、それを論文の体裁にまとめ上げるのは厳しい感じがある。

 この前一緒に散歩していた友人が「空の青さと葉っぱの緑のコントラストいいね」と言っていてちょっと嬉しかった。僕もそれすごくいいと思うんですよ。うん。

 物質とその配列を分節して考えてしまうから、意識現象が「余計な」ものに思えてくるのであって、しかし実のところ意識とは物質そのものである。私がそう感じるということは、世界がそのように在るということである。

1014

 ランダムネスもまた言葉、観念にすぎないのだ、ということを思う。つまりそれに対応する実体がこの世界にあるわけではないということ。無意味が非意味であるのと同じように、無規則もじっさいは非規則として見出された一つの規則なのだということを考える。それは混沌ではない。むしろわれわれの認識が前提している事前分布に正確に一致しているがゆえにわれわれに意味をもたらさないだけなのだ。たぶんだけど、われわれの認識はランダムネスを仮定してそこからの距離を測るような仕組みになっている。偏りを見出すためには偏っていない状態というのを一つ定めておく必要があって、それがランダムネスなのだ。それは真の意味での〈ランダムネス〉ではない。世界の全ては互いに関係しあっているのだから。みたいな。


 高校以来の友人が亡くなったという報せを受けた。事故だそうだ。ここしばらく顔を合わせていなかったから、あまり現実感がない。ただただ虚しい気持ちだけがある。

 「また会うことができる」ということの意味を考えていた。可能性は言語的なものにすぎない。だが現実はひとつだ。そういう意味では、もう二度と会うことのない生者たちが決定論的に存在する。彼らは僕にとって死者と同じであり、彼らにとっての僕もまたそうである。違いはただ言葉の上にのみ存在する。そしてその違いこそが本質的である。


 自分の気持とは結局のところ「そう書けただけ」のものに過ぎない。自分の情動にある表現を当て嵌めてみて違和感が生じなければ、それが自分の気持ちということになる。その情動に対する〈正しい〉表現がひとつ定まっているわけではない。そう書いてみてしっくりくることだけが、それが自分の気持であるための条件なのだ。(この解釈可能性の幅のうちに、洗脳とか自己暗示といったものがあるのだろうと思う。いまだ発見されていない「しっくりくる表現」を与えること。)「自分探し」という言葉があるけれど、それは要するによい表現を探すことなのだ、と思う。

 「自分の情動」という言葉を使ったがこれは少々問題含みな表現であると思う。命名されていない感情それ自体は実体を持っているという印象を与えてしまう可能性がある。だが情動それ自体もまた解釈であると言いたい。痛みや赤さ、怒りといったものもまた実在しない。それ自身も現実に対する解釈なのである。たとえば動物が天敵を前にして抱く恐怖はその状況についてのひとつの解釈だ。痛みや赤さも同じである。言語的解釈はその特殊な形(際立って再帰的な形)にすぎない。


 最近書くことをさぼっていたせいかうまく言葉が出てこない。脳内LSTMが言葉を忘れてしまった感じがする。そういえば時系列データ解析にRNNを使っていて思ったのだけど、RNN的な構造はあんまり本質的じゃないんじゃないか。なんというか、「空を飛ぶためには羽ばたきが必要」みたいな勘違いをしている気がする。人間の脳があまり長期的に情報を保持できないからと言って、計算機に同じことをさせる必要はない。


 いかなる表現に対しても違和感を覚えること、これはひとつの才能なのではないかという気がしてきた。

1013

 紙面を線によって分割することを考えよう。言うまでもなくこれは分節化の比喩である。紙面は世界であり線は文法であって、線に囲まれた領域は観念である。さて、ある領域を囲むために引かれた線が、意図せず他の領域をも囲っているということがありうる。このことを発見するとき、人はそこに必然性の影を見出す。なるほど観念は恣意的かもしれないが、観念が観念を導く過程は、すなわち論理は、真に必然的なのではないか?というわけである。前期ウィトゲンシュタインはおそらくそのように考えていた。基底は経験的だが、操作はそうではない、というような記述が論考にはある。だが、後期ウィトゲンシュタインにとってはもはやそうではなかった。前期ウィトゲンシュタインにとって領域を囲む輪郭線があらかじめ無限の長さを持った超越的直線であったのに対し、後期ウィトゲンシュタインにとってのそれは有限長のざらざらした曲線である。そして「もし仮にその曲線を「自然に」延長したならば、この領域もまた囲われることになるだろう」というポイントに、彼は必然性概念を定位したのである。「数学的命題はひとつの道を決定する」という彼の言葉は、おそらくこのようなことを意味している。

0928

 予測という課題も実際は分類なのだ、ということに気付いた。というか、(これは妙な表現なのだがとにかく僕にはそういうことがある)、以前気付いていたことがようやく腑に落ちた。つまりこういうことである。いかに物理学とはいえ、あらゆる意味で未来を予知することは出来ない。というのもその意味での予測とは宇宙そのものであるから。物理学にできるのは、「ある現象」のその先を予測することである。すなわちある現象がある現象であるときちんと分類できてはじめて、われわれは予測を行うことができるのだ。そして現象の分類は、時間というものをたんなるもう一つの奥行きと考えれば、結局は物体の分類と同じことである。違いがあるとすればそれは分類すべきデータが「見切れている」ことだろう。例えるならば、猫の上半身の写真を見て下半身の姿を推測すること、これが予測である。

 こう考えると、予測というタスクがむつかしい理由を説明できる気がする。要は教師データの問題なのだ。人間がつくる画像分類タスク用教師データは、分類すべき対象が画像の中心に見切れることなく写っている。これは人間が容易に対象を分類できるからだが、予測の場合はそうではない。人間には出来ないことを計算機にやらせるわけだから、一定の系列と直後の情報という人間が直接知りうる情報の中から、計算機は自分一人で「対象」を見出さねばならない。これは本質的に半教師あり学習であり、また、画像認識に例えるならば、教師データの中に大量の見切れた画像や意味をなさない画像が含まれていることを意味する。さらに予測機をじっさいに運用するとなると、きれいに切り取られたわけではない時系列データの中から兆候を発見する必要があるわけで、これは要はdetectionタスクである。難しくて当たり前だという気分になる。どうにかして解決したい。

 至極当たり前のことを書いた気がしてきた。

0926

 最近また鬱っぽくなっている気がする。突発的な面倒事にまったくと言っていいほど対処できない。不調の影響を最も受けにくいのがルーチンワークであるためなかなか気付かなかったけれども、これはなんらかの対処を考えたほうが良さそうだ。ぐえー。

 自分の文章表現に限界を感じて、ヒント探しにフラニーとズーイを少し再読した。よくもまあこんなにポンポンと比喩が浮かぶものだと感動する。そりゃあ修辞には凄い労力が払われているんだろうけれども、それにしても。「望遠鏡の反対側から覗いているような」とかね。今の僕には絶対に書けないと思う。ただ少し気付いたこともあって、たとえば「~なもの・こと」という文のもの・こと部分は隠喩ポイントなのかな、とか。一度時間をつくって念入りに研究してみたいと思う。

 そうだ、「研究」というのが出来るようになりたいと思っているのだった。自分で言うのもなんだけれど、僕は観察や洞察はちょっとうまい方だと思う。つまり思考における一歩の飛距離はそれなりにあるんだけれども、しかし向きや距離を修正しながらまっすぐ歩くことは不得手なのである。まずは自分のその一歩を詳しく分析できるようにならねばと思う。いまの自分は「違和感がある/ない」くらいでしか物事や思考を評価できていない。直交するチェックポイントを複数持つ必要がある。

 そろそろ履修を考えねばと思ってインターネットで学事日程を確認したら「履修登録期間:9月中旬」と書かれていて肝を冷やした。これまでは授業が開始してから履修登録が行われていたし、他学科の日程を見てもそんな感じで、そもそも具体的な日付がそこには書かれていなかったから、たぶん何かの間違いだろうと思って本郷まで掲示板を見に行くとやっぱり29日からだった。心臓に悪いのでこういうのやめて欲しい。そもそもうちの大学はweb周りの整備がかなり遅れていると思う。なにが足を引っ張っているのかいまいちよくわからないのだが、体質的なものなんだろうか。それともやっぱ予算の問題かしら。

 久しぶりに安田講堂横のクスノキの下でぼんやりした。僕の精神は場所と強く結びついているようで、ここに来るといつも穏やかで透明な気持ちになれる。こういう場所をもっと作りたいのだけれど、条件を満たすところは少ない。とくにその場所に行くために余計な気構えが要るようではダメなのである。自宅や大学、バイト先といった生活空間から、一歩脇道に逸れるくらいの気持ちで気軽に訪れることができる場所でなくてはならない。そういう空間はきわめて貴重である。

 自分は人に比べて聴覚記憶が弱いような気がしている。記憶の中を探しても、ほとんど音声的な記憶がない。いや、メロディや声質に対する記憶力はかなり良い方なので、これは音声言語の記憶に限った問題である。ちょっと不思議。ある種の時系列データを上手く学習できてないんだと思うけど、それは何故なのやら。小さい頃からやっていた音楽にその辺の能力を全部持っていかれたのかしらん。それにしては音楽的センスは鈍いんだけど。