Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0107

 われわれは宇宙の使いみちについて知っているだけで、宇宙については何も知らない。

 真に考える価値のある問題のほかに何も考えたくないと思う。しかし真に考える価値のある問題などあるのか。すべての哲学的問いが言語論的なのであれば、つまりすべての答えが説明であって宇宙の使いみちを与えるものにすぎないのであれば、われわれに与えられる解決が僕を納得させることは決してないだろう。そしてこれまでに僕が納得していないという事実が、すべての問いは言語論的であるということを示しているように思われる。起こっていることが起こっていて、それらはつねに一回的で、しかし僕らはそこに境界を引き、繰り返しを見出す。起こりうることを分類し、目的に応じて利用できるようにする。それらの事象がいったい〈何〉であるのか、そんなことを問うのは不毛である。なぜならそれらの事象を世界から切り出してきたのはわれわれの目的なのだから。だから、強いていうならばそれらは、僕らの手足の遠い遠い延長。僕の手が石を放り、放られた石ころは意志をまとって、手の代わりに獲物を仕留める。石ころは数式や計算機や、原子炉へと姿を変えて、われわれの目的に追従する。物理法則を記述した方程式は、実は記述でもなんでもなく、ただこのように振る舞えばこのような事態を引き起こせるよと僕らに教えているのにすぎない。この世界には素粒子などなく、それら事態を素粒子として分節することが、僕らに世界への接し方を教えるのにすぎない。それらは、真理というよりはダンスの教本であって、そこには問いも答えもなく、ただ踊りの仕方が記載されている。
 時間や空間、赤さや痛み、それらもまた一種の(原初的な)ゲシュタルトにすぎないのだと思う。ゲシュタルトであり、ゲシュタルトを包む輪郭線でもあり、その輪郭線がまた一つのゲシュタルトとして把握されている。だから、AとBを境界付ける線分に対し「これは何」と問うたところで、AとBを境界付ける有用性を答えるほかないように、「赤さとは何か」と問うてみたところで色彩の有用性を答えることしかわれわれにはできない。そしてわれわれを境界付ける原初的有用性、生命という偏りそれ自体もまた、われわれには把握できない。ある石ころがなぜ他の岩盤から独立しているのか、問うても仕方がないように。
 おそらく言葉がなければ「赤はなぜ赤いのだろう」という問いは生まれなかった。「赤はなぜ赤いのか」という言語表現に意味を「感じて」しまうこと、それだけがこの問いを支えている。そしてこの意味という「感じ」と、赤さという「感じ」はおそらく同じ種類のものである。かつて「ウィトゲンシュタインはすべてを記述の次元で考えた」という表現を読んだとき、われわれの〈この〉実感は言語に還元しうるものではない!と思ったものだけど、今にして思うとその実感こそが言語の起源だったのだ。「「すると、あなたは、〈痛み〉という語が本来泣き声を意味している、というのか。」――その反対である。痛みという語表現は泣き声に取って代わっているのであって、それを記述しているのではないのである(『探究』244節)」。
 言語ゲームの中で語られる自然と、言語ゲームを支える自然とは、まったくべつのものである。もちろんこの区別も言語ゲームの中で語られているものにすぎないから、後者はただ「超越論的に」その存在を仮定されているだけで、そういう意味では、それを語ることにもまた〈意味〉はないのだけれども。時空や赤さはおそらく後者に属しているのだが、その性質の幾つかは、言語ゲームの中の自然にも立ち位置を持っているがゆえに混乱を生んでいる。「認識」が問題になるのは、そういう理由によるのだろう。「自分が何を認識しているか」を語ることが有用であったがために、そうなってしまったのだ。もし仮に自分の視覚が自分の「意のまま」になったとしたら、「赤の赤さ」は「手の形」が問題にならないと同じく、哲学の問いにはならなかったのではないかと思う。これもまあただの想像なんだけれども。

 卒業論文を提出しました。わりと雑なのでちゃんと単位もらえるかちょっと不安。まあ大丈夫だと思うんだけど。しかしまあ、ようやく解放された感じがあります。考えたいことを考えられるって素敵。

1201

 くるりくるり。無限小の円周を歩いて回る。


 孤独について考えていました。思うに僕は、あらゆる超越的なものたちを言語ゲームの内側に位置づけるにあたって、他者性という超越も退けてしまったのだと思います。何が言いたいかというと、他者というものもまた僕が世界を切り開いたあとにはじめて現れるゲームのコマにすぎない、ということです。僕自身がそうであるのと同じように。私は世界、世界はひとり。そんな気持ちで生きています。生きてゆきます。


 天才少女の檻の前には「目的を与えないでください」という注意書きが貼られている。


 新しい領域を探索する場合は”自然さ”にあまり拘らないほうが良い、というのが最近の学びである。学習とか理解といったものはいわば自然さの更新なのだから。


 哲学の問題はどれも抽象に端を発している。抽象化はつねにある視点と対応しているのに、人はしばしばそのことを忘れて、その抽象が独立の実在であると考えるようになる(「私」とか「時間」とか)。結果として、その抽象を適用可能な範囲を超えて使用してしまうことになり、矛盾なりアポリアなりが発生する。

 抽象とは認識そのものである。


 機械はプログラムに従っているだけで何かを理解しているわけではないと人はいう。だがそれを言うならば機械がそうであるのと全く同じ意味で僕らも何かを理解しているわけではない。違いは、僕らのプログラムにおいては「理解する」という言葉も命令として機能する、ということだけだ。


 良い冗談を言えることはとても大切なことなのだ、ということを思った。


「僕はいったい何がしたいんだろう」
「君が今まさにしていることさ」

 どうしようもないこと・この世界の本性に関わるものに対してネガティブな印象を抱いてしまうのは不幸なことだと思う。虚無を、欲望を、不自由を愛していかねばならない。「知性あるものは不可避の事象を憤ったりはしないものだ」とはカレルレン(幼年期の終り)の言葉。

1118

 物事を抽象化するためには、捨象される部分が一個の対象として"見えて"いなくてはならないということに気付いた。つまり抽象化においては瑣末な情報が落ちているのではなく、それらが(こう言ってよいのかはわからないが)無意識に回収されているのだ。個々の要素的段階が身体化され、意識することなくその流れを追うことができるようなってはじめて、それを抽象できる。重要なのは、いくら抽象したところで、その対象を認識するコスト自体は変化しないということである。たしかに意識的思考は節約されるが、その背後では同じぶんだけ直観的思考が働いている。そしてその能力は脳の学習能力にバウンドされているから、必然的に我々の自然に対する理解力には限界があるということになる。おそらく将来我々は「まったく納得は得られないが予測は可能である」という形で自然と向き合うことを迫られるだろう、と思う。人より賢い計算機の手を借りて。

1026

 強化学習では長期的な報酬の最大化の困難さが問題になっているけれども、人間でも同じことが言えるはずである。つまり報酬はできるだけ短いタイムスパンで明確に与えた方がよい。先日久しぶりにタイピングゲームをやっていてそれを実感した。ためしに細かい目標を設定してそれをクリアできるか否かのみに注目し練習してみると、わずか数回の試行のうちに、今までvarianceの大きかった運指がみるみる安定しはじめたのである。目標を設定することの価値を今まで小さく見積もっていたところがあり、そうした考えを改めるきっかけになった。

 思うに、学習というプロセスは基本的に短期的に行われる。誤差逆伝播法を行うためにはインプットを保持しておく必要があるからだ(幾つかの理由から大脳では誤差逆伝播は行われていないと言われているけれど、バイト先の上司(彼は元理研BSIの研究員である)が大脳皮質の6層構造はbackpropを実現するために存在しているという(ちょっとトンデモな)仮説を提示しており、僕は割とそれを信じている)。だからある認知-行動の結果が良いものであるか悪いものであるかという教師信号はできるだけ即座に与えられた方が良い。依存的行動はまさにそのように形成される。また報酬はできるだけ明確であるべきだ。これはやってみた実感なのだけれど、タイピングの場合はスコアタイムよりも正確さの方が良い。おそらくタイムは運に依存する要素が大きいからだと思う。できるだけコントローラブルなものに対してはっきりした目標を設定すること、そうしてはじめて脳は「なにが良かったのか/悪かったのか」を理解することができる、ということなのだと思う。

 問題は長期的な行動戦略の学習はどのように行われるのかということだけど、これも結局は短期的学習の枠組みの上で行われるのだろうと僕は考えている。たとえばある行動がしばらく後で悪手であったと分かったとする。この時点ではその人の行動政策関数はアップデートされない。このとき行われるのは、この行動は悪手であるという観念連合の形成である。実際に政策関数が更新されるのは、その人が次にその悪手を選択したとき(つまり失敗したとき)である。しまった、というネガティブな報酬がまだ脳内に保持されている行動評価に影響する。必要なのはその行動を行う直前あるいは直後にそれが悪手であることを思い出すことであり、反省のない人が、つまり自分の行動を観念化して評価することをしない人物(つまり僕みたいな人)が同じ失敗を繰り返すのは、要は本質的な学習がちっとも行われていないからなのだろう。「あの時のあの選択はまずかった」としばらく経ってから思い返すのでは、人は進歩しないのである。

 目標を立てて練習することの重要性はよく言われることだし、何事につけて上達の早い人達というのはそういうプロセスを知ってか知らずか踏んでいる人たちなんだと思う。ただ僕はなにをやるにつけて理由付けを必要とするタイプの人間なので、動機づけとしてこういう仮説を立ててみた。あながち的外れでもないんじゃないかと思う。

 二年前と比べて、僕の視界はずっと鮮やかになったと思う。それはおそらく、鮮やかな視界を「良いもの」として意識化したことによるのだろう。適切な段階を踏めば一次視覚野だって再トレーニング可能だというのが僕の感覚である。より良い局所解を目指して歩いてゆきたいと思う。


 経験が可能であるためには経験に先んじてアプリオリな直観形式が必要であるとカントは考えたけれども、時空間という形式もまた学習可能なんじゃないかなと計算機を見ていると思う。世界の自由度を効率よく表現しようとしたら時空間という特徴量が得られました、みたいな。その表現の効率性はおそらく身体に規定されているから、そういう意味では先験的と言って良い気もするけど、でもまあたんにそれだけだよねとも思う。そしてまたその身体というのも、熱死に向かう宇宙の歴史の中に生じた偏りの泡沫にすぎないわけで。ところで物理学には詳しくないからこれはただの門外漢の妄想なんだけれども、世界というのは連続したひとつのエネルギーなんじゃないかという気がしている。atomは独立した実在ではなく、エネルギー最小化のひとつの解として存在するのにすぎないのではないか。というか波動関数が云々とかいっていたのはつまりそういうことだったのかな。エネルギーが先か、物質が先か。式の上ではどっちだって同じことなのだろうけれども、〈私〉の不思議さに僕が納得するためには、前者でなくてはならないような気がする。マッハ、あるいはパースもそういうふうに考えていたのではないか。もちろんこれらも「書けただけ」なのだけどもしかし。いつかちゃんと物理学を勉強したいですね。でもそのいつかは決してこないだろうという予感もある。僕はめんどくさがりですからー。

1016

 自分には多少のアレキシサイミア傾向があると思う。アレキシサイミアとは自分の情動を認識することが不得手な性質のこと。そしてその欠陥を、観察によって補っているところがある。たとえば自分は絵を描くことが好きだと思う。でもじっさい絵を描いているときには、絵が楽しいなんて気持ちは一切ない。ただ無我夢中で絵を描き続けている自分を観察して、どうやら絵が好きらしいと認識しているのにすぎない。みんなそうなのだと思っていたけれど、どうやら多くの人たちはそうではないらしい。その違いが何に由来するのかはよくわからない。Wikipediaには脳の半球同士の連絡が鈍いのではないかという仮説が書かれていた。昔から自分は言葉とイメージの連絡が悪い気はしていて、だからまあやっぱりその辺に理由があるのかなとは思う。女性よりも男性のほうが脳梁が細いらしく、そして自閉症というのは極端な男性脳であるという。そう考えると、僕の脳の統制の取れなさについても納得がいく。僕の脳の各部位はてんで気ままに働いている。他の部位に邪魔されないおかげでそれぞれの能力は高い。でも上手に使えない。困った。で、情動と高次意識野との間に直接のホットラインが引かれていないために、僕は外から見える情報だけをもとにして自分の気持ちを推察しなくちゃならない。ということは、実際に行動に移るまで自分がそれを好きか嫌いかわからないということであり、とするともしかして僕のある種の衝動性はセルフモニタのひとつの手段なのかもしれないという仮説が浮かぶ。しかし現実というのはなかなか後戻りが効かない。体験版がもっとたくさんあればいいのにと思う。大学生活お試し体験一ヶ月、とかね。それとも何かはじめる前に自分の反応を予測できるようになればいいのかな。これはある程度は得意になってきてると思う。おかげさまで何もやらないうちに想像で満足できるようになってしまった。困った。普通の人たちはいったいどのようにして意志決定をし、なにかを好きだと言っているのだろう。すべての人は本質的に僕と同じであって自分の気持ちをそれほど正確に把握しているわけではなく、ただそれを疑わないだけなのだ、ということは考えられる。そもそも気持ちというのは解釈の次元にしか存在しないものなのであって、このこと自体は脳梁の太さなんかと関係ないと思う。つまり僕とその他大勢とで情動認識の質が完全に違うわけではないんだろうってこと。ただ彼らの気持ちは高次意識中枢により強く作用して、意識にもっと抽象的で複雑な願望を抱かせることができる。疑いの気持ちなんて一切浮かばないくらい高度で巧妙で力のある嘘。自分にもそういう気持ちがあれば楽だったろうになあと思う。私にもただ一つの願望が持てるならー。なんか文章が支離滅裂になってきた。つかれた。

1015

 卒論がなかなか書けないので焦っています。内容自体は大筋で決まっていて、喩え話もたくさん用意してあるのに、なかなか筆が進まない。計画的に少しずつ書いてゆけば良いのだと言葉の上では思うのだけれど、心の底ではこれは「一気に書いてしまう」べきものだと感じている。そしてそのためにはまだ何かが欠けている気がするのだ。その種の欠落が有限時間内に埋められた経験などないわけですが。なやー。

 「眼には見えないが、神的理性だけが見抜くことができる真の深遠なアナロジー」(数学について、ポアンカレ

 そういえばウィトゲンシュタインは書き連ねたメモをあとから編集する形で本にしていたという。たぶん僕にもそういうやり方が向いていると思うのだけど、それを論文の体裁にまとめ上げるのは厳しい感じがある。

 この前一緒に散歩していた友人が「空の青さと葉っぱの緑のコントラストいいね」と言っていてちょっと嬉しかった。僕もそれすごくいいと思うんですよ。うん。

 物質とその配列を分節して考えてしまうから、意識現象が「余計な」ものに思えてくるのであって、しかし実のところ意識とは物質そのものである。私がそう感じるということは、世界がそのように在るということである。

1014

 ランダムネスもまた言葉、観念にすぎないのだ、ということを思う。つまりそれに対応する実体がこの世界にあるわけではないということ。無意味が非意味であるのと同じように、無規則もじっさいは非規則として見出された一つの規則なのだということを考える。それは混沌ではない。むしろわれわれの認識が前提している事前分布に正確に一致しているがゆえにわれわれに意味をもたらさないだけなのだ。たぶんだけど、われわれの認識はランダムネスを仮定してそこからの距離を測るような仕組みになっている。偏りを見出すためには偏っていない状態というのを一つ定めておく必要があって、それがランダムネスなのだ。それは真の意味での〈ランダムネス〉ではない。世界の全ては互いに関係しあっているのだから。みたいな。


 高校以来の友人が亡くなったという報せを受けた。事故だそうだ。ここしばらく顔を合わせていなかったから、あまり現実感がない。ただただ虚しい気持ちだけがある。

 「また会うことができる」ということの意味を考えていた。可能性は言語的なものにすぎない。だが現実はひとつだ。そういう意味では、もう二度と会うことのない生者たちが決定論的に存在する。彼らは僕にとって死者と同じであり、彼らにとっての僕もまたそうである。違いはただ言葉の上にのみ存在する。そしてその違いこそが本質的である。


 自分の気持とは結局のところ「そう書けただけ」のものに過ぎない。自分の情動にある表現を当て嵌めてみて違和感が生じなければ、それが自分の気持ちということになる。その情動に対する〈正しい〉表現がひとつ定まっているわけではない。そう書いてみてしっくりくることだけが、それが自分の気持であるための条件なのだ。(この解釈可能性の幅のうちに、洗脳とか自己暗示といったものがあるのだろうと思う。いまだ発見されていない「しっくりくる表現」を与えること。)「自分探し」という言葉があるけれど、それは要するによい表現を探すことなのだ、と思う。

 「自分の情動」という言葉を使ったがこれは少々問題含みな表現であると思う。命名されていない感情それ自体は実体を持っているという印象を与えてしまう可能性がある。だが情動それ自体もまた解釈であると言いたい。痛みや赤さ、怒りといったものもまた実在しない。それ自身も現実に対する解釈なのである。たとえば動物が天敵を前にして抱く恐怖はその状況についてのひとつの解釈だ。痛みや赤さも同じである。言語的解釈はその特殊な形(際立って再帰的な形)にすぎない。


 最近書くことをさぼっていたせいかうまく言葉が出てこない。脳内LSTMが言葉を忘れてしまった感じがする。そういえば時系列データ解析にRNNを使っていて思ったのだけど、RNN的な構造はあんまり本質的じゃないんじゃないか。なんというか、「空を飛ぶためには羽ばたきが必要」みたいな勘違いをしている気がする。人間の脳があまり長期的に情報を保持できないからと言って、計算機に同じことをさせる必要はない。


 いかなる表現に対しても違和感を覚えること、これはひとつの才能なのではないかという気がしてきた。