Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0702

 粘土細工。僕にとっての考えることのイメージ。はじめに用意した一定量の粘土塊、その分量が概ね現実に即していて、そしてそれを連続的に変形させることによって目的のものをつくることができるなら、現実においてもその思考は実現可能である。ただしそうしてつくることのできる形が実現可能なものすべてかというとそうではなく、そういう形をつくるにはいくつかの場面で非連続的な変形が、言語的な飛躍が必要になる。乾いた粘土を切って削って、接着剤で貼り合わせる工程。最近それにちょっと慣れてきた気がする。

 一滴の雨粒が紫陽花の葉を揺らす。水滴によってクチクラ層に与えられた衝撃は、葉の弾性に乗り移り植物の全体へと広がってゆく。膨大な数の細胞が揺さぶられる。水滴はアイデンティティを喪失して崩壊し、飛び散る無数の断片は張力によってかつての球面を取り戻そうとする。雨粒だった断片たちは、おのおの紫陽花やその他まわりの光線を歪曲させているが、そこに結ばれた像を見る者などいるはずがない。目眩。一瞬の歴史はすぐさま次の雨滴によって塗りつぶされる。

0630

 人は生きている時間の大部分を立っているか座っているか寝転んでいるかの状態で過ごすのだなと考えたら不思議な気分になってきた。姿勢は大事。

 単眼カメラからの深度推定をニューラルネットに教えています。とある論文を適当にChainerで実装してみただけなのだけどそれなりの精度が出ている。深度情報を教師データとして与えなくともステレオ画像のみから奥行きを学習できるのが面白いところで、応用範囲は広そう。Segmentationタスクを同時に解かせるとかしたらもっと精度上がるかもしれない。

0625

 普遍的な意味での〈知性〉というものがあって、それが自然を理解しようとして数学的構造を見出したとするならば、この世界は〈自然法則〉によってできているといえるかもしれない。けれども生命と知性がひとつのアトラクタに過ぎないのであれば、それによって見出された構造もたんなるアトラクタに過ぎない。知性が自然に構造を見出したという代わりに、自然にこのような構造を見出したものが生命や知性であったということが可能であり、これら両表現は相補的であって、そうした関係の全体を、僕は「生活」と呼びたい。円城塔がBoy's Surfaceで「知性と真理の共進化」みたいなこと言ってたけど、たぶんそんな気持ち。

 心の倉庫にうず高く積まれそのままにされていたさまざまな経験たちが、統一的に解釈されなおしてゆく感覚がある。あるべき記憶があるべき場所に配置され、統合されて、ひとつの全体へと編み込まれていく。自明から非自明へ、非自明から自明へ、集合と拡散が平衡点に安定し、均質な焔が身体を駆動する。なんでもわかる気がするし、なにもわからなくていいとも思う。どっちだって同じだけど、だけど私はここにいる。そんな感じ。

0622

 上手に言葉の出てこない日が続きます。違うな、言葉自体は出てくるのだけれど、吐き出した言葉を意識する力が減っていて、それで自分の言葉の信頼性を担保できない日が続いているというのが正しい。言語野がクーラーのない真夏の教室みたいに淀んでいる。なにもする気が起きず、ただ汗ばむ陽気に耐えている。ぼんやり。解像度の低さ。

 怯えと苛立ちに満ちた小心者の倫理たちにうんざりしている。そういうものが自分の中にいまだ在ることにも。正当化を意図した一切の言説を取り下げて、自分の好みと自然さとをそのままに引き受けて生きていきたい。

「単純な〔分割され得ない〕『私』は、直観でもなければ概念でもなくて、意識の単なる形式にすぎない」(「純理」第一版・382)「私が、私自身についてもつところの認識は、あるがままの『私』の認識ではなくて、私が私自身に現れるままの『私』の認識である、従って自己の意識は、自己の認識ではない」(「純理」・158)

0619

 今日は一日中論文を読んでいました。AbstractとIntroductionを読んでふむふむと分かった気になっても、いざ実装しようという段階になると無限にわからない部分が出てくるもので、自分の理解力に対する自分の批判能力の低さにげんなりする。もう少し慎重になるべき。

 人に興味を持つという表現で言われていることをうまく理解できていない気がする。興味を持った対象がたまたま人間であったということはもちろんありうる。でもおそらく人々が言っているのはそういう意味のことではないのだ。それはいったいどういう気持なのだろう。とここのところちょっと不思議に思っている。

0617

 自分が文字を書くのが苦手なのは、書いてる間に息を止めてしまっているからっぽいということに気がついた。字や絵を書いているときの息苦しさはてっきり首肩周りの筋肉が硬直することによる血流の低下から来ているのだろうと思っていたのだけど、まさかほとんど息をするのを忘れていたとは。深い集中状態に入るとセルフモニタがまったく効かなくなるのでこれまで気付かなかったらしい。はー。息をするのって大事。

0616

 今日は社員総会なるものがあり新入社員は自己紹介を求められたので「自己とは何か」という問いについて話をした。たぶん僕の自己紹介はそれで尽きると思う。

 ここ最近、帰り道に都電荒川線を使ってみている。山手線で大塚まで行きそこで乗り換える。大塚駅周辺のこじんまりと整っている感じが好きで、ときどき駅ビルの本屋で立ち読みしたり駅前広場のベンチでぼーっとしたり。今日はふと良い日本語が読みたくなって村上春樹の「スプートニクの恋人」を読んでみた。やはり彼の書く日本語は音楽的でいいと思う。無辺の宇宙的孤独。

 白杖で地面を叩きながら盲人が淀みなく階段を降りていた。たぶん彼は階段の段数を記憶していたと思う。そういう生活があることをちょっと面白く感じた。