Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

1019

 これ以上疑えないからという理由でなにかを信じるのはやはり不誠実な態度だと思う。懐疑は知性のネガティブな側面などではまったくなく、それ自体ひとつの創造的営みである。だからこれ以上疑えないことを理由にある命題が真であると主張することは、自分が100メートルを10秒で走れないからといってそれが人類についての一般的な真理であると主張するのに似ている。これ以上疑ってもご利益がないから、ならいいと思うのだけど。その信仰は本質的には懐疑と関係していないから。

 最近スキゾイドパーソナリティ障害に興味を持っていろいろ調べている。自分はどこかおかしいという意識がずっとあって、さまざまな概念を自身に当てはめてきたけれど、今のところこの解釈が一番しっくり来ている。それほど重度なものではないのでとくに問題を生じることもないだろう。ああ、集団の規範を内面化する能力が極端に低いのはちょっとどうにかしたいかもしれない。コミュニティのノリにうまく乗っかれないのはすでに諦めてるからよいのだけど、問題は学問や技術の体系だって集団の規範であるという点である。
 だいぶ前に読んだ岡田尊司の本の中で、SPDの例としてウィトゲンシュタインが挙げられていたのを思い出した。でこれは最近知ったのだけれど彼の母親は異常に過干渉な人物であったようだ(ちょっと笑った)。僕は自分を彼に重ねすぎだろうか。

0918

 なにもしないまま時間が過ぎていくこの感覚を忘れかけていたことに気付いてぞっとしている。なによりも慎重に執り行われるべき、自分が自分であるための儀式が廃れていく。現在は数直線の一点に成り下がり、混沌は整理され、空白は予定で埋まり、はにかみは気恥ずかしさに変わる。詩人はそうやって死ぬ。ひとまとまりの暇さえあればいつだってここに戻ってこられると、そういう自分への信頼はあるのだが、その暇のほうがどんどんなくなっていく。行動予定表の合間を縫って時間を作ってみたところで、それでは意味がない。暇は与えられるものでなくてはならない。つくられた時間は退屈を生まないから。生きることが長い暇つぶしであるのなら、暇であることを忘れられたそれはなんだ?

 C.S.パースbotが「真理は、もしそれに基づいて行為するならば、我々が目標とする地点まで我々を運んでくれるという点においてのみ偽りから区別される」と呟いているのをみて少しうれしくなる。われわれは宇宙の使いみちを知っているだけで、宇宙について何かを知っているわけではない。

 今日のような青空を見るために生きているような気がする。

0917

 言葉を用いて相貌を伝えることは出来ない。言葉は相貌の上に築かれたものだからだ。林檎の相貌を知らない人に、いくら言葉を尽くしたところで、実際に林檎を目にしたときの「その」感じを伝えることは不可能である。もちろん林檎の相貌を構成する要素的な相貌――丸さ、赤さ、空間的な延長など――をすでに共有している場合は、それらを組み合わせることによってある程度までは伝達可能であるけれども。赤ん坊が言葉で教わることなしにさまざまな相貌(概念)を獲得していくことからも明らかなように、相貌の獲得は多くの場合、言葉の外側で行われる。その取っ掛かりとなるのはおそらくある種の予測である。一瞬後の未来を予測するためには、外界をどのように構造化すればよいか。この問いを解くことがわれわれに世界と対象を与えるのだ。空間的に強く結びついた領域には一個の表現を与えたほうが都合が良い、という風に。(ただしここでいう「未来」や「予測」といった概念もまた言語ゲームを支える自然において〈未来〉を〈予測〉するなかで得られたものである。と僕は思う。)
 ではわれわれは言語によってなにを伝えているか。大抵の場合は、すでに共有されている相貌の組合せ方である。知らない料理のレシピは新しい情報ではあるが、それを構成する要素――切る焼く、食材など――はすでに知られている。学ぶー教えるという表現が通常意味しているのはこの種の伝達である。この種類の伝達は、ある意味では、真に新しい知識を伝えてはいない。
 だが言語によって新しい相貌を学ぶことが一切できないかというと、そうではない。それはその言葉の意味するところが理解できないとき、すなわち言語が言語として機能していないときに起こる。意味の分からない言葉、それは空気の震えやインクの染み以上のものではないのだが、それらによってどうにかして予測(発話者の振る舞いや文章の続きなど)を為そうとするときに、その空気の震えやインクの染みからどのような意味を読み取る”べき”かが推定されるのである。

 知識を得ることには興味がないけれど、新しい相貌を獲得するのはけっこう好きだと思う。見えなかったものが見えるようになる感覚。世界に未知の輪郭線を書き入れること。

0820

 黒猫なんていないよ、ただ黒猫という言葉があるだけ。それは取っ手なんだ、あるいはツマミかもしれないが、それを介することで君は現実を操作できる。まあ君や現実も同じく取っ手の一つにすぎないんだけどね。烏はそう言うとばさりと羽ばたいて忽然と消えた。あとにはなにも残らなかった。

0816

 久しぶりの労動。休み期間中に見事に昼夜逆転してしまったため昨夜は寝るのに失敗し3時間睡眠での出社だったけど、それでも休み直前と比べれば随分と調子が良かった。「6時間睡眠を2週間続けると2日徹夜したのと同じくらいまで認知能力が下がる」という話は嘘ではなかったらしい。日本人の労働生産性が低いのは睡眠時間が短いからなんじゃないかという気さえする。みんなもっと寝よう。というか睡眠時間に時給が発生してしかるべきだよね。

 仕事は前処理。なにも考えずに実装した脳筋最適化アルゴリズムがなかなかうまい具合に機能したので満足です。あとはてきとーにニューラルネットに放り込んでひとまず様子見。もうちょっとすると大量のデータがやってくるらしいのでそれまでに目処は立てておきたい。

 世界の愛と平和を守るために今日は早く眠ります。で昼過ぎくらいまで眠りたい。無理だけど。

0815

 机周りを片付けていたらコインマジックの本が出てきたのでコインマジックの練習をしはじめた。典型的なADHD仕草である。David Rothのハンギングコインというルーティンをきちんと演じられるようなっておきたいとかねてより思っていたので、Youtubeで参考動画を見ながら手順を追っていたのだが、動画の中で演者が綺麗にコインロールをやっているのを見て、そういえば僕はコインロール練習したことなかったなと今度はそっちの練習をはじめる。ADHD仕草その2である。でせっかくだからこれを「練習することの練習」にしようと思いたち、可能な限り意識的に訓練メニューを考えることにした。まず十分くらいがむしゃらに練習してみて、よく失敗するポイントを探す。はじめに目についたのは、中指から薬指への移行のぎこちなさだった。中指の背の上を転がってきたコインの縁を薬指で引っ掛けて捕まえるのだが、ここで毎回つっかえている。コインの縁が薬指の脇腹あたりに乗ってしまうのがよくないぽい。ひとまず薬指をより高く持ち上げることで対処する。また全体的な流れの悪さは、人差し指から中指への移行の段階で前もって薬指を準備しておくことによってクリアした。これで人差し指から薬指までの流れはまあまあ滑らかになった。すると今度は薬指から渡されたコインをうまく小指で引き受けることができずに取り落としてしまうことが増えてので、今度はその問題について考える。前三本の勢いが増したせいで小指が対応できていないようだった。これはコインを小指の根本方向に持ってくることでなんとかする。ここまでで一連の動作をつっかえることなくこなせるようになったが、まだまだぎこちないし無理をしている観がある。たんに習熟が足りないだけだろうかと反復練習を続けるがあまり改善しない。しばらくやっていると指がだめになってきたので気分転換に散歩に行き、モスバーガーで夕食を済ませて帰宅。外の空気のせいで芯までじめじめになってしまったので湯船にお湯を張って浸かる。直前に読んでいたフラニーとズーイ(これも片付け中に発掘したものである。ADHD仕草その3)に感化されて風呂にコインを持って入る。水に浸かりながら心を集中させるのなんかかっこよくないですか。でようやくコツをつかんだ。それまでやっていたように渡す先の指を高く挙げて無理に縁を掴みに行くのではなくて、現在コインを保持している指をタイミングよく自然に引き下げればよいらしい。それでいままで出てきた課題はだいたい解決する。めでたしめでたし。まだ流れるようにとまではいかないが、あとは慣れの問題である。今日はできることが一つ増えてよい一日であった。おしまい。

0814

 昨日はうまい具合に衝動性を上げることができたので青春十八切符を買って電車に飛び乗ってみた。京浜東北線に揺られながら適当に近場の観光地を調べていると、静岡県の三島という場所が気になったので向かってみる。昼過ぎに家を出て寄り道しつつ向かったので到着したのは夕方。天気は曇り。
 インターネットの写真から受けた印象は正しくて、三島はとても自分好みの街だった。街なかを綺麗な小川が流れていて、川沿いに散歩道がある。路地が多く人も少なくて、歩いていて楽しい。途中で雨が降り出したので早めに引き上げたが、晴れた日に再訪してもっと探索したいと思う。18切符はまだ4日分残っているし。ちなみに帰路にはグリーン車を使ってみた。青春18切符と併用できて、熱海東京間で800円くらい。ゆったりできてなかなか良かったので長距離移動するときはまた使ってみるかもしれない。

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 絵にせよ楽器にせよ数学にせよ、一歩一歩考えながら練習することが大切なのだけど、僕は集中するとすぐ言葉を忘れてしまうので困っている。なんというか自分の「自然な活動」の中には言語使用が含まれていない感じがする。毎日ひとりごとを言い続けるとかすればよいのだろうか。

 例のGoogleの解雇騒動を受けて平等について考えていた。解雇された人物の書いた文章を読むと、Googleの反応は少々ヒステリックだったのではないかと思わないでもない。彼はべつに男女に能力差があるとは書いていない、ただ集団には傾向が存在するということを指摘しているだけのように思える。でたぶんこの傾向の違いをどのように捉えるかというところに、問題の焦点はあるのだろう。Google側からすれば、そうした傾向は誤った伝統・文化背景や偏見、経済事情に根ざすもので、「理想的な状況」においては生じ得なかったはずのものであり、それを自然な傾向として認め放置することはそれ自体が差別になりうる。だが件の解雇された社員からすれば、その「理想的な状況」という観念こそがひとつの独善的な思想であり、自由な議論を妨げるエコーチャンバーに見えたのだ。彼は"De-moralize diversity"(多様性の脱道徳化)を主張している。多様性は善なのではなく、ただ多様性を必要としている人がいるのにすぎない。
 僕は自由責任モデルを信じていないので、ある人が道徳的な人達から見て最悪な道徳観を持っていたところで、その人に責任はなく、彼がそのような道徳観をもつに至った個人史すべてをひっくるめて「不運」と呼びたい。あとはただ論戦が存在するだけだ。みんな好き勝手戦えばよいと思う。僕はそうする。