Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学

0118

雪が降りました。現象です。 「好きなものを選ぶ」ことは、好きなものがすでに決まっているがゆえに自由ではない。僕らは自由ではなく、しかし自由を感じている。 言葉によって考えると量的な関係を見落とすなどして誤った結論を出してしまうことがあるけれ…

0112

日記を再開しようと思います。 結局、卒論を書き上げることができず留年ということになってしまったけれども、それについてはまあ仕方ないことだったと思っている。反省すべき点はあまたあるけれども、ここ半年くらいの自分は、自力ではどうにも脱出できない…

ウィトゲンシュタインの数学観について

結局諸事情あって卒論は間に合わなかったのですが、締め切り一週間前くらいから書き始めた卒論もどきは一応出来上がっていて(字数は足りないけれども(というか原典にあたっていないの致命的(あとにゆくほど雑になる(言い訳です))))、お蔵入りにしてしまうの…

1125

僕らは現実に「連続した直線がある」などとは言わず、ただインクや液晶のドットで構成された(実際はざらざらゴツゴツした)直線様のものがある、というだろう。だが、例えば精神の時間的連続性について述べるとき、我々はまるで時間的直線が現実にあるかのよ…

1110

「生きることに意味はない」と主張することは、虫を見て騒ぐ人たちに「その虫は(見た目は悪いが)無害だから取り立てて騒ぐことはない」と言うことに似ている。あるいは、アニメのキャラクタに熱を上げる人たちに「それはただの絵だ」と言うことに似ている。…

1022

ich denkeのichとich binのichが別物だという認識は完全に正しいと思うのだが、それがどう違うのか説明せよと言われると難しい。 自己認識としての「私」と、この私としての〈私〉は別物だよね、だって自己認識を有する存在のうちこれだけが僕なのだし、と言…

1012

「縦3cm、横4cmの三角形の面積は6cm^2である」という命題が現実について何か述べるとすれば「もし仮に縦3cm、横4cmの三角形が存在するならばその面積は6cm^2である」という仮定含みの形に書き換えられたときだけで、もちろん現実世界に三角形など"ない"。 「…

1002

自分の性格に病名がついていた(自由律俳句) 昨日、新しいPCが届いたのですが、何をどう頑張っても起動せず、どうやら初期不良を引いたようでした。BIOSすら起動しないという残念な状況でたいへんがっかりした気持ちです(メーカと販売店に連絡したところ交換…

0928

心の哲学について。消去主義的唯物論の立場には親近感を覚えはするものの、そこには「消去主義」という考え方自体が消去主義によって否定されたはずの命題的思考であるという自己撞着が紛れ込んでいる。また因果的還元云々言ったところで、その因果というも…

0912

言語的記述は、それがいかに理論立っていようと絶対的なものに思われようと、世界についての<感想>を超えるものではない、と言いたい。そしてある目的の相の下においてはじめて感想に優劣が生じるのである。 わたくしは、よい書物を著したいと思った。だが…

言葉とか

言語・論理がなぜ哲学の問題になりうるのかわからなくなりつつある。「名とは何か」とか「なぜ言葉は世界を記述できるのか」とか「論理法則とは何か」とか、どれも「君がそのように言葉を使っているから」以上の答えがあるような問題ではないのではないか。 …

理解

我々の(少なくとも日常的な)現象理解は、操作可能性を基礎に置いている。「原因Cによって結果Eが起こる」というモデルが意味するのは、Eを制御するためにはCに干渉すれば良いということだ。もちろん、現象Eを制御する意図を抜きにしてCとEの因果関係を把握す…

0903

例えば一キロくらいの長い棒の端をお腹に押し当てて、もう片方の端を金槌で叩いてみたとする。衝撃は棒を伝ってお腹に及び、僕は痛い思いをする。このとき痛かったのはいったいどこなのだろうか。常識的に考えればお腹だが、棒の先が痛みを感じたと考えるこ…

0829

たとえ未来の僕がとは関係のないものであったとしても、他者を愛するのと同じように、彼を愛することもできるのだということに気が付きました。もちろんこれは執着であって、信仰の一つの形態に過ぎません。でも少なくとも「私」を必要としない信仰です。そ…

喩え話体系(2)

喩え話体系(1) - Redundanzの続きです。 さて、先の文章において僕はほとんどすべての境界、すなわち個物の独立性を否定する立場を取った。それはただの恣意的な区分であり、<境界>ではなく「境界」にすぎないものであると述べた。このことは、世界が<粒…

喩え話体系(1)

──筆者はなんでもないものを、なんでもなく述べることができない。筆者はなんでもないものを、常に何かであるかのように語ってしまう。(谷川俊太郎「なんでもないものの尊厳」) 下向きに移動するものしか見えないカメラがあって、それが画面の前に固定されて…

0719

鎌倉に住んでいる従兄弟一家に誘われて横浜で映画を見ました。なんのひねりもない単純なエンターテイメントではあったけれど、映像を作るということに関してはハリウッドには多くの才能が集まっていると思う。すさまじいお金が動いているのでしょう(調べたら…

生きづらさについて

一般に、「なぜ?」という問いには限界がある。理由と説明の連鎖には上限が存在し、どこかでそれを打ち切らざるを得ないことを我々は経験的に知っている。子供の「なぜ?」の応酬を浴びたことのある者や、つねに「なぜ?」と考えてしまう者はよく実感してい…

世界と主観のこと

素朴な物理主義の立場では、知性は本質的なカテゴリではないので、仮に主観の性質が世界そのものの性質であったとしても、「人間に主観が宿る」という構図は明らかに不適当である。ゆえに自我と他我とを別物にしたまま主観について語るためには、物理法則の…

0630

複雑大規模なライフゲーム。白色の盤面上を法則に従って移り変わる、黒色のドット。それが時を経て組織化し、いつしか自我を主張するようになる。けれど僕から見て彼はただの模様であり、彼が彼自身であると主張する部位と、それを除いた盤面の他の部分との…

自由意志のこと

自由意志について書こうと思う。人は(ある意味では)自由でもなんでもないということと、それから責任について書こうと思う。 ここで僕の主張したいことは、自由とは主観の形式であるということである。言い換えれば、意志と呼ばれる形式が成立するためには必…

0615

哲学は知性の墓場だというようなことを考えていました。まあそこら辺に死体が放ってあるよりは墓場が整備されているだけいくらかましだとは言える。 知性が知性それ自身を問題にするとき、そこでは一個の知性が見る側と見られる側とに分離されるのです。その…

確率のこととか

世界が相対的なものなのだとしたら、世界を構成する最小の粒はなんの記憶も貯めないのだろう。あらゆる情報は粒と粒の関係の裡に蓄えられる(かのように見える)。だからその粒が何らかの運動(それはただ生成と消滅のみなのではないかと思う)をするのだとすれ…

生きること

たくさん眠って心身を回復させるつもりだったのだけれど結局寝付けないでいる。しばらく前に体得した方法を使うとたいていはすんなり意識のスイッチをオフに出来るのだが、今日ばかりはどういうわけかうまくいかないのだ。ふつふつと湧いてくる雑念の喚起す…

0521

心と世界ゼミのために駒場へ。電車の中で同じく駒場に向かっていた哲学課程の同期に会い、着くまでの間少し話をしました。彼はデカルトで卒論を書くつもりらしい。彼もやっぱり意識や自他の非対称性に関心を持っていて、そうした問題に対するアプローチの仕…

悟りという状態のこと

自分の情動について理由付けがなされると途端にその情動が薄れてしまうことがある。経験したことのある人は多いと思う。仏教ではこの現象を意図的に引き起こすことによって煩悩を消し去り悟りへと至る道が説かれている。 情動の自覚と説明付けがその情動を薄…

0506

某氏の高校時代のブログを久しぶりに読んでみてやっぱ天才的だなあと思いました。軽妙でちょっと斜に構えてるんだけど強く芯の通った独白調の文体は一つの理想である。あと瑞々しい感性! ニー仏氏(仏教思想のゼロポイント著者)のnoteを読んでいたらゴールデ…

言葉との戦争

仏教の唯識の考え方に触れて少しばかり考えてみたのだけれど、結局はこれも世界の構成要素を仮定する試みの一つなのであって、他の似たような考え方から明晰な仕方で区別できるようなものではない。まあ物質のパターンから固有性のある認識が出てくるような…

0421

倫理史の講義でデカルトの「我思う故に我あり」に対する同時代人の批判の話を聞いておもしろいなあと思いました。僕らは自分の考えを言葉やイメージなどの感覚できる形式のものを媒介にしてしか知ることが出来ないわけで、だから自分の考えていることを知る…

0415

4限が休講で暇になったので安田講堂横のベンチでひなたぼっこをしているとキリスト教の勧誘に捕まりました。空の青さはいつにもまして鮮やかだし風は心地よいしで完璧な昼下がりという感じで、無視を決め込もうかとも思ったのですが、いかんせん暇だったので…

数学の発明について

ウィトゲンシュタインの「数学者は数学的対象を発見しているのではなく発明している」という言葉について考えていた。 例えば、形式的なルールが与えられていれば、コンピュータを用いてひたすら定理を作ってゆくことができる。形式主義の立場はそういうもの…

0319

昨日は九時くらいに眠ったのですが、昼夜逆転した僕の身体はそれをお昼寝だと理解したようで、二時過ぎくらいに目が覚めてしまいました。中途半端に頭もすっきりしてしまって、なかなか寝付けなかったのでつらつら考え事をすることに。 なぜ我々の思考や言語…

0313

昨日ようやくCaffeで学習させたネットワークを利用できるようになりました。学習とテストとに別々のネットワークを作ってやればよかったのです。CaffeはLayer名ごとにblobsを扱っているようで、そのへんの辻褄をきちんと合わせておけば、一度学習させたネッ…

0226

矛盾とは使用法の不明な命題である。 矛盾という問題は、本質的には、抽象化するという行為に付随する問題なのではなかろうか。数学や論理学もおそらく人間が認識することによる問題を回避しきれてはいない。「言葉の意味とはその使用である」云々。例えば、…

0218

雨が降っていたので家で本を読んだり数学をしたりしていました。人生がこういう一日の連続であれば良いのにと思ったりもするのだけど、そう思えるのは適度に面倒事に包まれているからなのかもしれません。あるものを心地よく感じるために、その反対を経験す…

0108

頭がつかれています。予定していたことがちっともやれていない。睡眠の質があんまり良くないぽいです。宮崎と東京の間の時間のズレに脳が戸惑っている感じがある。 考えたことを幾つか。 僕は木全体に秩序を見るけれどもそれぞれの枝には偶然性を感じ、その…

メモ(1220)

先日の日記に思考は行為であり、ゆえに思考の構造は世界の構造であると書いた。これをもう少し詳しく書き残しておく。このことは同じく行為の実践の場である身体との類比で考えればわかりやすいと思う。例えば、右手をグーにしつつチョキをつくることはでき…

1216

思考は行為を内化したものである。ということを素朴に理解するなら、思考が世界について語りうるのは、ちょうど僕らの身体が世界の中で動くことが出来るということと同じ意味においてなのだ、ということを思いつきました。なんと言えばいいのかな、例えば「…