Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

オフトニン依存が社会問題に。小学校でオフトンについての説明会とか開かれるようになる。

 ものすごく朝がだるかったです。なんでだろ、疲れているというのではなくて、死ぬほど起きたくない、みたいな。冬だからかな。頑張って目を覚まして、大学へ。

 今日は割と真面目に数学の演習やりました。積分変数の変更とか部分積分とか受験生の頃死ぬほど解いたように思うのだけど、これが案外抜けているもんですね。記憶が消えること、日常的な出来事であるはずなのに、とても恐ろしいことに思えます。その割に普段意識されないのは、記憶の性質故なのかね、とか。
 構造化学が休講だったので(有り難い、シュレーディンガー方程式が追えなくなってきていたところでした)、家に帰ってきて、今これを書いています。情報の課題でも片付けようかな。
 
 書く文章が硬直してきました。良くない兆候です。最近あまり本を読んでいないからか。僕は、自分独自の文体というものにはそれほどこだわりがないので、気に入った文章の書き方を見つけると参考にしてみることが結構あるのだけど、ここのところ、素敵だなあと思える新しい文章に出会っていません。それでどうなるのかというと、内向きに篭りはじめて、僕の書ける範囲で先鋭化します。こんな風に。ちょっと気持ち悪いです。
 独創性とはなんだろうか。僕は、自分一人の力で新しいものを作ることなど出来ない。言葉さえそうです。僕に出来るのは、ほんの一匙のアレンジを加えることだけ。そしてそうして生まれた僕だけの方法も、常にどこかからか新しいものを足してやらねば内向きに歪んでいってしまう。僕が持っているのは、これが好きだ、これは嫌いだと感じる、正負の、心の走性それだけなのです。そうして、それで十分だと、心の底では思っているのです。

 もしも、この歪みこそが創造と呼ばれる営みなのだとしたら。
 外側から見て独創的な人物が、どのくらい自身を好いているだろうか。きっと、気持ち悪がっているんじゃないのかなあ、と思います。それはきっと、硬直だから。気持ち悪い僕と付き合ってゆく自信は、それほどには無いのです。

 授業で英語の文章を書かされて、その文章の形式について指摘されたのですけど、そういえば小学校の頃、段落の概念とか字下げとか括弧の使い方とか習ったなあ、と。ちょっと読みやすくなったかな、これで。