Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

生々しさの効用について。

 文章の映像性のこと。
 例えば、こんな文章は割と鮮明なイメージを伴って読まれるのではないかと思います。大雑把に書いたものなので、僕の期待する効果は得られないかもしれないかも知れません。

 僕らの存在を認めた敵が、手に槍やナイフや、諸々の武器を構えて襲い掛かってくる。皆、年端もいかない少年少女たちだ。ここでは、子供たちは消耗品として扱われる。組織が誘拐してきた子供たちは、薬で心をねじ曲げられ、考える力を毟り取られて、娼婦や兵士として、擦り切れるまで使用されて、廃棄されてゆくのだ。彼らは、親を殺し兄妹を陵辱した大人たちの側にたって僕らに向かってくる。異常で、そしてここでは当たり前に起こる出来事。
 僕はため息を付いて、同時に、無造作にアサルトライフルを撃つ放す。赤く血しぶきが舞う。子供たちがばたばたと倒れ伏せる、その亡骸に足を取られた少女が、転ぶ。その細い体がびくんとは跳ねたかと思うと、その脇腹が消失している。友軍の、機関砲だ。腸が溢れ、血の海に中身をぶち撒ける。僕は何も感じない、感じる機能は、カットされている。戦争に感傷は不要だ。7.62mm弾を頭部に受けて脳漿を撒き散らす少年の、何も見えていない落ち窪んだ双眸が僕を見つめている。何が起きたかも知ること無く、脳組織を滅茶苦茶にされたであろう彼の顔に表情はなく、それも第二撃を受けて首を残して消える。吹き出す鮮血。死、死、死。僕らは死神だ。ひとつの正義の実行部隊として。神が神としてあるためには、悪魔がどうしても必要だったということ。(略)

 映像的な文章を書ける人間というのは、文の途中で人間の最も深いところにある情動に一瞬触れるのではないかな、とか。恐怖や、性愛や、猟奇に。それは単純で、僕らの心を本能の次元で支配するものだから、想像力のスイッチとして機能し、そうして強引に起動させた読み手の想像力を援用して、本当なら届かないはずの言葉を叩き込んでくる。時間をおいて読み返してみた限り、僕にはうまく出来なかったみたいだけど。

 文章の表現力というのを意識的に捉えるということをあまりやって来なかったので、そういう視点でもう一度印象に残った作品を読み返してみると、作家の力に驚かされます。彼らは、意識してこれをやっているのだろうか、そうでないのなら、どうしてそんなことが出来ただろう。凄いなあ、とか。
 僕は、感性の鈍い人間だと自覚しているから、いろいろな方法を意識的に試してみて、ちょっとづつ慣れてゆくしかありません。気が遠くなるけども、久しぶりに楽しいなと感じています。
 どうしてかわからないけども、今になって、人を揺さぶる文章を書いてみたいと思ったのです。日記を書き始めて、言葉を織ることが日常に組み込まれたからかもわかりません。あまりに拙い自分の言葉に、嫌気が差したというのももちろんあるのだろうけど。割とポジティブな気分で、そう思っています。

 今日が金曜時間割に変更になっていたので、明日が休日である気がしているのだけど、やっぱり水曜らしいです、残念。今日も早めに、オフトゥーン・ダイヴ。


追記
 わかるものの中に巧妙に仕組まれたわからないもの。作者にとっては想像される確かなもので、読み手にとっては、作者がそういうものを想定したという影としてしか与えられないもの。それらの持つ力、割と大きいよね、とか。