Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

駒場祭2日目

 駒場祭2日目でした。友人(naishinokami)の音楽喫茶店でちょっとだけヴァイオリン演奏。寒い中、特に練習もせず弾いたせいで、ひどい弾き方をしてしまった。楽器に申し訳ない。綺麗に弾いてやらねばなあ、もう一度練習をしなおそう。とか思いつつ、それが言葉であるうちはきっとやらない。
 その喫茶店で出会ったある人が、僕と近しいことを考えている方で、長々とお話をしました。(今思えば、昔naishinokamiが、僕に興味を持っている方がいる、と言ってたのはあの人のことだったのかしら)友だちとは何かから始まって(友だちとは説明概念であり自分と対象以外の外部に対してしか意味を持たないとか)、独我論周辺の話とか、数字の話とか。楽しかったです。途中で、生の端点は閉じているか開いているかという話題になり、その方のおっしゃった「最も素敵な想像として、死んでゆく自分から見て死んでゆく自分はだんだんとゆっくりになってゆき、永遠に死に続けるということを考えている」という台詞に、かなり驚きました。僕の考えていたことと、まるきり同じだったから。自分の考えていることが他人に考えられているというのは、気持ち悪かったり悔しかったりするものだけど、今回はそうでなくて、純粋に嬉しかったし、興奮したのです。それで、水を得た魚のごとく延々と話し込んでしまい、結局クラスの方の手伝いはほとんどしなかったのだけれど、あまり後悔はしていません。あとで非難されたって構わないと思えるほど優先順位の高い物事はなかなかあり得ないし、だから非難されたって構わない。
 その人と僕の間に共通の知り合いがいることがわかって、いろいろあったりもしたのだけど、まあ。不穏さを醸してしまって申し訳ないです。ごめんなさい。

 その後サークルへ。いつもと違う練習場所だったので案の定迷いました。でも衛星のサポートを受けてなんとか到着。定期演奏会が近いのですこし緊張します。
 僕は、ある日程に定められた物事のために努力してゆく、というのが苦手なのだなあと思います。期日が近づいてくると心がそわそわして、ずっと先のことであれば良いのに、もう終わったことであれば良いのにと考えます。そのプレッシャ、ゴールが近づいてくる緊張感、それらを良いものと思えないのです。それこそ、期日までの区間が開区間であればいいのにと想像します。よくないです。いくらでも先延ばしにしてしまえる人格だということだから。このことで僕はどれほどの損をしてきただろう、してゆくのだろう。ああ。

 家に帰ってきて、心が落ち着き始めると、昂ぶっていた間にやらかした様々なことを思い出して怖くなります。あの対応は間違いだったのではとか、踏み込みすぎてしまったとか、喋りすぎたとか、よりうまい方法があったな、とか。もっと自分をよく見せる方法があったに違いないと、嘘つきの反省会です。
 僕が素敵でなければ、素敵な人達は僕と関わってくれないに違いないと思うから。そうして、精一杯下駄を履いて、欺瞞を働いて、転ぶ。滑稽だなあと思います。でも、それ以外に方法がないし、僕はこうやって生きてゆくしかない。なぜなら、死ぬのはもっと怖いから。だから僕はずっと、生と心の連続について考えていて、同じようなことを考える人達を求め続ける。誰かがこの苦しみを乗り越えるかもしれないと期待して。
 いっそすべてを諦めて受け入れるてしまうのが唯一の安息への道なのかもしれないけれど。そうするにはまだ早すぎる気がするし、圧倒的に遅すぎた気もする。でも、僕が生きている間に何かが起こる気がするのよね、とか。にゃんにゃん。

 明日もサークルです。早く起きなくちゃ。はあ。