Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

断絶

 疲れました。とりあえず今日わかったのは、自己分析によるところの僕の欠陥が、やっぱり外から見てもそうであるということで、ひたすらにかなしい。それを隠そうと頑張ってはみているのだけど、ネイティブにそうあれる人達と比べて、僕は人間らしさで劣るようです。健常ネイティブ、怖い。
 他人のする例え話がわかりません。〇〇なように、と言われて、〇〇なように、以外の捉え方が出来ないのです。僕にとっての言葉は、まさに字義通りの意味しか持たず、一般的に知られているらしい喩え話と現実の事象の対応が、頭の中にないのです。それ故、喩え話に対しては、そこから導かれうる意図を可能な限り列挙しつつ、その喩え話を正しく解釈しているに違いない人達の振る舞いを観察し、それから行動に移すしかない。今日は、その僕の一瞬の遅れが、とても気に障る人たちがいるのだなと、絶望とともに理解しました。(ぼーっとしているように見えるらしいです。)
 僕は文脈が読めないし、だから、人の話が理解できないし、人に言いたいことを伝えることが出来ません。他者と関わるのに向いていないのだと思います。いや、そんなことは最初から知っていた。分かった上で、克服するためにやっていた事において、その不可能性を示されてしまったこと。向いていないというのは控えめな表現で、圧倒的に無理なのだ、断絶しか無いのだと感じます。典型的な理系脳だとか言われましたけど、とんでもない。ただの欠陥です、病気です、狂気です。間違っているのは僕の方で、正しいのは多数派の皆様。なぜなら、当たり前は彼らの側の戦力だから。アタリマエのことをアタリマエに知っている健常な人々が健常に生きるための世界。僕がそこにいるのはどこまでも場違いで、もうそんな世界にはさよならすべきなのではないかと、良くない想像が脳裏をよぎります。
 加えて、ポーズという概念が気持ち悪くて仕方ない。分かったふりをすること、同調したふりをすること、機嫌をとって笑うこと(彼らは機嫌をとっているに違いない、だってあんなつまらない発言を面白いと思える人間がいて良いはずがない)、それらが人の関わりの中で必須のものとされていることが、悲しくてしかたがないのです。何故人は欺瞞を働かねば生きてゆけないのか、どうして、自分の思考に正直であれないのか。それが出来ないなら、人類など滅んだほうがいい。こんなかなしい仕組みを利用しながら、わざわざ存続する必要など、これっぽっちもないのだ。僕は人類に敵対したい、大きな声で、僕はあなた方の敵だと宣言してやりたい、一人残らず殲滅したい。そして、それが出来ない自分の小ささが、何よりかなしいです。
 何度も言うけれど、間違っているのは僕で、おかしいのは僕です。きっと他の人達は、自分に正直に生きた結果として、社会に参加できているのでしょう。涙が出るほど羨ましいし、噛んだ唇から血が滲むほどに憎たらしい。
 美しく格好の良い人間になりたい。そんな希望も、今では過去の思い出として埋没するのを待つのみです。僕は、僕にやれることをやります。それが誰も幸せにしなくたって。