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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

りんごを落としてみること

小噺

 あなたの目の前に林檎の木がある。その枝先には熟れた林檎がなっており、時折風に吹かれて、今にも落下しそうに揺らめいている。林檎の重みは近い将来、ヘタを切断し、自らを木の支配から解き放つだろう。それがどの瞬間に生じる出来事なのか予測しろと言われてみてあなたは困惑するだろうが、正確に条件が与えられればある程度の精度で計算は可能だろうということについては納得してもらえるはずだ。私達が経験する幾多の事象はたいてい自然法則なるものに則っていると考えられているし、今のところ私達の認識は自然法則が成立するような方法でしか世界を捉えることができていない。故に、例えば、私が望んだ瞬間に林檎は落下するのだというような想定は、オッカムの剃刀に切り取られて議論に上ることさえまずあり得ない。私以外の認識にとっては、という注釈付きで。

 私の頭の中にはある装置が埋め込まれている。私の脳の記憶野に居座るそれは、私の記憶を監視し、与えられた命令に従って私の記憶を改竄する。SFにありがちな記憶改変然とした記憶改変をするというわけではない。その極限に精巧なシステムは、私の認識する世界が、私の意思によって成ったものであるかのように私の記憶を書き換えるためにのみ私の脳内に存在している。そう、林檎を落としたのは私がそう望んだからだという風に。そうして私は、世界になった。

 事の始まりは、大学に入学したての私が大学生らしさから来る貧困を脱すべく働き口を探していた、先月の時点に遡る。家庭教師の案件に片っ端から応募し落ち続けていた私の目にふと飛び込んだ、自分の所属する大学のある研究室が募集している治験のバイトのチラシは、その時の私に与えられた天啓のように思われた。あなたの脳をお貸しくださいの文字列には恐怖を感じないでもなかったが、内容を読む限り、記憶に、しかも過去の思い出ではなく入力の時点で多少の介入を行う程度だと明記されており、次いで記憶改変に利用する外付けの記憶野は実験後もご利用いただけますと来れば応募しない手はない。
その頃そこそこ一般的になってきていた外部記憶装置は、一般的になってきたとはいえ私のような貧乏学生の手の届く代物ではなく、考え事が好きな割に前提知識の入力が億劫な怠惰人間にとって、それは願ってもない申し出だった。背に腹は代えられないのである。
 指定された日時に指定された研究室に向かうと、そこには一人の老人が立っていて、自分が実験を主催している教授だと言う。彼の挙動不審な眼球や、時折痙攣するように震える指先に、圧倒的なマッド・サイエンティスト成分を感じながら、この実験の趣旨はところでいったい何なのでしょうと恐る恐る聞いてみる私に、その老教授は至極端的に答えた。
「私は魂を探しています。」
虚を突かれ一瞬の空白の後、私の頭は彼の言葉を解釈しようとぐるぐる回転し始める。魂とはアレか、あの魂か、はてそれは形而上学的な概念ではなかったのかと思考を空滑りさせる私の沈黙に説明不足を感じ取ったのか、彼は更に続けた。
「魂とはつまり、この世界の理屈が及ばないところから、私が湧いてくることへの信仰なのです。自由意志と言い換えてやっても良い。」
ますますもって意味がわからない。内輪の話題を外部に発信する場合についてまわる、前提の共有への意識の欠如が原因に違いない、このコミュニケーションの断絶を嘆きつつ、とりあえず、「はあなるほど」と納得もしくはこれ以上は結構ですの意図を表現してみる。教授の方もこちらの理解度など端から気にしていない様子で、より具体的な実験手順の解説を続けた。
「これからあなたの脳にある装置を取り付けます。それは一般的な外部記憶に多少の改造を施したもので、基本的な機能に変わりはありません。ただ、この装置のみがうけ持つ特殊な仕事として、あなたの記憶の入力に干渉し、あなたが意識を向けた外界の事象が、あなたの意思によって引き起こされたものであるかのように改変します。あなたの仕事は、その状態で日常生活を送ってもらい、毎日私の指定する時間にこの場所で私の質問に応えること、それだけです。では施術に入ります。」
 そういうわけで、私は鼻からナノマシンを注入され、脳内でネットワークを形成したそれは、与えられた仕事を黙々とこなし始めた。つまり、私から見た私の領域は外部に向かって拡散し、林檎の実を落としたり、風を吹かせたり、雨を降らせたりするのが私の意図するところとなってしまったのであり、例えるなら、自然法則が私の皮を被り、人の形に顕現したというように言うこともできる。魂からより離れたように思われてしかたがないというのが正直な感想で、あの老教授の考えるところは未だ理解の片鱗すらつかめていない。魂とは、より私の内側に存在するものではなかったのか?