Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 今日は日大合唱団の演奏を聞きにゆきました。シンプルな曲が多め。その分、歌声に調和がとれているし、その団の特性が演目とマッチしていて、良かったです。「信じる」とか、中学校の合唱以来で、なんというか。葉末の露がきらめく朝に、何をみつめる小鹿のひとみ♪楽しい。
 後、北川昇の「まだ見ぬあなたへ」が素晴らしかった。僕らの年齢で歌うべき歌というのはあって、それは安易さと捉えられがちだけども決してそうではなくて。ある種の素直さと、その効用を見ました。

 帰りに、Twitterの柵氏(旧名さたやみ氏)と明大前のラーメン屋で夜ご飯を食べました。馬鹿な話ばかりしたように思うのですが、あまり記憶にありません。Twitterが自己言及的にならざるをえないことと、その繰り返しがある固定点に収斂すること、そこへ漸近してゆく我々はどうやって幸せになるべきかなどと話したことを朧気ながら覚えています。いや無理でしょうと改めて思うのだけど。まあなにもしないことなど出来ないのだから、僕らによって為されることは僕らが意図したものであって欲しいよねと、その辺でお互いの目指すところは一致していたように思います。
 そういえば、「無い」という概念、不思議。そこにあるはずであるという直感的な補完が働いて初めて(僕らにとって)あり得る事象。宇宙から見たらあるものが全てなのよなあ、とかとか。

 帰って、ALESSの実験をやっているのですが思った以上に手間取ってしまい、終わる気配がありません。もうダメかもわからんね。寝れないことは確実です。その後の永眠があり得るかどうかは、これからのがんばりにかかっている。がんばります。

 あ、そうそう。勧められたことだし少女革命ウテナ見てみよう。