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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

独我論と自由意志その2

 タブレットの指し示す室の扉に僕のアイデントタグをかざすと、一瞬の間があって、それからドアがスライドして開く。どうぞ、という大人のものとも子供のものともつかぬ澄んだ声が室の奥から響き、そちらに目をやると、研究室らしい雑多な部屋の中で、一人の老人がこちらに背を向けて椅子に座っていた。
 「どうも、失礼します」
 僕が一言言って部屋に足を踏み入れると、その男が椅子をくるりと回転させてこちらを向き、その鋭い視線を僕に注ぐ。どうやらこの人物がTABRISの発明者であり、統一理論の提唱者であり、人工知能研究の分野においても最先端をひた走る、当代随一の天才科学者らしい。僕は、手に汗が滲むのを自覚した。
 「君の話は聞いている。」
 「あの、原因は、」
 「分からない。」
 僕が話すのを遮って彼はそう言った。
 「それじゃあ」
 「君のカルテは見せて貰ったし、その正当性も確認した。君の脳はあらゆる意味で正常だし、TABRISの方にも異常はない。はじめは君の脳の特異な思考様式がTABRISによる解析を阻んでいることも考えたが、TABRISの大脳モニタ機能自体は正しく君の思考を追っている。」
 科学者は、僕が口を挟む間もなく、早口で語り続ける。仕方ないから、僕は黙って聞くことにした。
 「そしてこれが一番面白いところなのだが」
 彼はそこではじめて言葉を切り、それから興味深そうに微笑んで言う。
 「君の脳のニューラルネットワークは、正しくTABRISの干渉を受けているのだ。」

 話を整理しよう。医師から送られた資料を分析した結果、僕の脳は一般的にそうであるようにTABRISによって意志を強力にフィードバックされ、それによって、先程の例に依れば、さあ勉強しようという気になっているらしい。しかし、僕は全くそのことを自覚していない。一体それはどういうことなのか。脳内で組み上がる神経の回路こそが、当人の思考と呼ばれる代物であったはずなのに、僕においては、心と肉体が乖離してしまっている。このことが意味するものは果たして。
 「さあ、分からない。」
 天才科学者は繰り返した。
 「そんな、何か分かることは無いんですか」
 僕が喘ぐように尋ねると、彼は数分ほど目を閉じ、それから語りはじめた。

 「私はかつて、魂を探してみたことがある。」
 「魂?」
 「そう、魂だ。例えば、風が吹く所を想像してもらいたい。そして、その風を、自分の意志でもって吹かせたのだと思い込んだ君を、思い浮かべてみて欲しい。」
 言われるがままに、僕は考えた。僕の体をなぞり、髪をなびかせる風、それが、自分の望みによって吹いたものだと思い込んだ僕。僕が意図したから、その風が吹いたのだという風に記憶を作り替えた僕。
 「この時、君は君の認識する世界に於いて、実際に風を吹かせたのだ。」
 「それは、違うんじゃないでしょうか。因果関係が逆転して、」
 「そう、因果が逆転している。もちろん、物理的には君の脳が遠隔的に自然に作用し風を吹かせることなんてあり得ない。ただね、ここで本質的なのは、そういう風に考えてみたところで、君の主観の上になんの不都合も生じないことなのだ。そして、このことは人間の思考にも言える。
 なんとなくわかってきた。しかし、それは。 
 「脳の中に生じる不随意の思考を、己が意図したものと思い込むことで、人は統合を維持しているに過ぎないのだ。」
 「自意識は、後付ってことですか。」
 「そう、君は飲み込みが早い。まあこの考え自体は古いもので、100年以上も昔に人の意志に行為が先んじることを示す実験は行われている。」
 「それとこれに、何の関係が。」
 「私は、赤色が赤色に見える理由を知りたかった。幾多の思考を統合するその先に、仮想的に生じる私という観念、それは良い。それはつまり、形而上の、といって良いのかわからないが、そういう意味での自意識は一点で生じていればよいという理屈だ。私はそこに、物理的世界の延長上ではどうしても説明できない、"本質的な知覚"の手がかりがあるのではと考えたのだ。」
 「ええと、行為に対して、それを意図したのは私だと紐付ける対象として私があって、だからそれはとても小さくても良いと、それが魂であると、そういうことですか。」
 「その通り。」
 僕は、科学者の言うことを朧気に理解する。それは、僕がたまに考えることだったから。赤色が赤色に見えることの不思議。僕が、僕であるという奇跡。
 「それは、見つかりましたか?」
 僕が聞くと、彼は首を振って、しかし嬉しそうに答えた。
 「君の中に見つかるかもしれない。」
 怖気がした。