Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

理解について

 理解することを定式化するのは難しい。それは、理解するという語の包含する意味が多様であることに起因するように思われるし、他人や自分の心の裡の不可視性によっているようにも思われる。理解することと知ることとは本質的に不可分であるように思われる。知られている対象は、単純な対応であったり、推論過程であったりする。あなたの名前は、山田太郎です。これは普通、理解とは呼ばれないけれども、その理由は、問題が単純すぎるからでは、多分ない。
 理解することを理解することの困難さは、理解することの現れの問題につながっている。例えば、自分の考えを相手が理解してくれた事の根拠は、自分の思想を理解しているなら自然に思い浮かぶであろう推論を相手がすることである。それ以外の方法で、人の理解を測ることは難しい。期末試験が実施される理由がそれである。そこでは理解しているごとく振る舞えることが理解することの本質とされる。だから、ある概念について詳細に書いてある本があったとして、その本は自身に書かれていることを理解しているとは言わない。まとめてしまってこうなる。理解とは、推論の能力を持った存在が、何らかの方法で表現された概念を丸々暗記してしまうことである。覚える概念の表現のされ方自体は言語だろうが図だろうがなんでも良いが、包括的で無くてはならない。それが概念が概念たる所以だから。自分のものの考え方と同種の方法で展開されていればなお良い。そういう意味で、境界の定義される思考の流れが頭の中にしっかりと係留されているのなら、理解しているものが理解しているかのごとく振る舞えるだろう。
 さて、こうやって理解の外的な性質について何やら言ってみたところで、自分が何かを理解することについては、もう少し違った見方がありうる。理解するというのは、何らかの実感を伴うものだからだ。(あなたに自意識があればの話である)ところで僕は今不完全性定理の証明を眺めながらうんうん唸っているわけだけども、この定理の証明の流れ自体は簡単である。まず、自然数の公理系を整備し、その公理系の内側でその公理系の議論が可能であることを示す。そうして、自然数の体系の中で、「この文は証明できない」という意味(意味という語をここで使って良いかは解らないけども)の自己言及文を作る。これだけである。言っていることはよくわからないが、よくわからない分何かの意味でもっともらしく、こう言葉にしてしまうだけで何やら理解している気になってくる。これを理解と呼んでしまっても、僕は構わないのではないかと思っている。
 この定理を示すことの困難は、それに必要となる諸定理の証明の理解の難しさによる。しかし、この定理全体を理解することの困難はまた別の地平に配位している。不完全性定理の証明自体は上に述べたような物語然とした流れを取っており、逆に言うと、これが一番僕にとって悩ましいことなのだが、その流れを知ったところで理解した気になれない。物語は読まれはするが理解はされないのだ。少なくとも僕にとって、物語は読んで楽しむものであり、理解しようといって流れを追う以上の方法がわからない。(メタファの理解とかはまた別だけども)一方、証明に必要とされる補題の証明に関しては一種の理解の実感があり、この差を埋めることが僕の理解についての理解において最優先で片付けられるべき問題である。
 考えうる最悪の結末として、僕の脳が同時に参照できる知識の容量の限界がある。つまり僕が不完全性定理を実感とともに理解できないのは、そこに用いられた推論の過程を、補題を含めて全て思い浮かべることができないからであり、補題でそれが可能なのはそれらがそこまで混みいっていないからである、ということである。そうであった場合、僕はほんとうの意味で賢くならなければ、この定理を実感とともに理解することは不可能である、ということになる。ただ細部については正しいことが言えるから、それらの組み合わせとして、定理の正しさを示すことはできるだろう。しかしその先へ進む営みは、暗闇の中の迷路の様相を呈することが予想される。
 それとも、それで良い可能性もある。もしかして人類の知の先端は、形式的な理解によって切り開かれており、実感を伴う理解の形は、もはや時代遅れのものとなっている可能性だ。示すことが出来る。故に私は理解している。外的な理解が、理解の本文であるとものとする。
 賢い人達に聞いてみれば良いという話がある。しかしそれが、正しい理解を経て僕に返ってくるかは、理解の外にある。
 もしくは、単に言語の性質の問題。言葉は決して僕には帰依しない。それが、借り物感を生み出している理由なのではないかということ。図を書いて納得できるかは、半導体を眺めたところで僕に計算論はわからないので、そういうことになる。
 いろいろ考えては見たものの、結局何が何だかわからなかった。もしかして、僕が理解を、非自明なものに限定し過ぎていたとの見方もあるけども、人と比べられないがゆえに根拠は薄弱である。しかし、理解することと知っていることとは不可分であるという意見には、一端の真実が含まれていると信じる。僕はもっと記憶せねばならない。結果に対する効率の良さばかり目指してきた受験生時代の悪しき風習という、驚くほど陳腐なところに落ち着いたことに失笑を禁じ得ないが、外部から与えられる基準に甘んじたことの罰は、様々なところで見受けられるし、いずれにせよ僕はもう少し真摯であらねばならないと思う。
 これが、2012年を終え、2013年に向かう僕の、抱負ということになる。