Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

成人式

 成人式に行ってきました。地元の公民館に9時半集合。5年ほど会っていない人間がたくさんいて、少々緊張したのですけど、実際再会してみてそんなに変わっていない印象。人は中学の頃の方向性そのままに成長してゆくのだなと、少し面白くない気分になったりします。まあ高校から神戸に住んでいた僕だってそんなに変われているわけではないから、予想されていたことではある。
 見た目は多少変化していました。髪染めてる人、多い。男はそうでもないのだけど、女子はもう誰が誰だかわかりません。歯型の照合でやっと身元が同定できる感じです。(嘘) しかしまあ、外見的記号というものはどちらかと言えば所属集団からの(言外の)要請であるような気もして、つまり彼らは彼らで社会に参加しているのだなあ、とか。働いている人、結婚して子供をもうけた人、大学に行っている人、いろいろな生き方があり、それらと自分を比較して、僕が大勢の中の一人でしか無い、ということを強烈に意識できたのは良かったかも知れません。

 退屈な式を数時間ほどやって、夜はみんなで集まってお酒を飲みました。全体的にうるさかったから、室の隅の比較的静かなところで、親しかった友人と近況を話し合ったり。僕はそんなに飲まなかったから酔っぱらいのアレさ加減について行けず辟易したりもしたのだけど、悪くはなかったです。僕だって中学の頃は奇声を上げて廊下を走り回っている人間だったし。
 だから、そういう喧騒の中に身を置いているとかつての僕の自然体がそこに保存されているように思われて、懐かしい。成人の日であったけども、心を病んで鬼と変わってしまった青年が、かつて人だった頃の自分を幻視するような、そんな逆説めいた心地がしました。

 がんばろう。