Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 価値があると述べることの意味を、価値という概念の由来から見れば、価値があると判断されたものには価値があったということになる、と思います。僕が生きて活動している以上、その実際的な価値というものには価値が有るわけで、それは本質であると言って良い、と思います。(生の生々しさは、本当は、哲学ととても相性が良いはずなのです。)
 したがって、xに価値があるということの価値は、価値が有るという語によって保証されていて(ここで語は実際から切り離される)、それはxに価値を代入した場合でも成り立つ。だから、価値があるということには価値があると言えても良いのでは、ということになるのではと思うのだけど、ここで面白いのは、価値という語に価値が有ることが価値という語の意味なのだ、と言っても同じことが言えていることなのです。そしてそのことは、価値という語の使用によって、暗に(いや、実のところは明瞭りと)示されている、というのが、語の意味とはその使用である、ということなのだと思います。だから、意味の意味は意味という語の使われる場面を考えれば、それで良いのです。
 別にウィトゲンシュタインは、語の意味はその使用であると言うことが、語の本質的な意味を定義しているとは考えていない。(そもそもこのようなことを考えること自体を否定しているよう感じられる。(使用説とか青色本の誤読でしょ(ほらまたそうやって敵を作る)))だからこそこれは、処方箋なのだと、ふと思いました。

 今日は認知脳科学の試験でした。昼ぐらいから勉強をはじめたのだけど、講義を聞きながら思うところをTwitterにpostしまくっていたのが案外良かったらしく、特に補充すべき知識も必要無さそうで、とりあえず視覚と視神経の働きについてインターネットで調べたりしながら、試験会場へ。
 なぜか知らないけども、試験を受けに来ているる東大の学生の会話、好ましくないものが多いです。なんだろう、僕はこういうものへのコンプレックスでもあるのかしら。どうしてかしらないけども、「下卑た」という語が頭に浮かびます。げへへへ。
 試験は恙無く終了。割と出来たかと思います。MT野についてよく聞いてなかったため、一つあやふやなところがあったのだけど、適当に書いたら案外的を射ていたようで胸をなでおろしました。幸先は良い。
 この調子で行ってくれればと思います。うまく調子に乗らねばなりません。それが出来れば自分を治療してゆく切っ掛けとなり得るだろうというのが、保健センタで得た知見であった。努力することの意義を自分に認めさせねばなりません。そのためには努力して成功するしかなくって、その連鎖の始まりに今回の定期試験を持ってこれたらなと思います。成績的にも、これからについても。
 がんばろうがんばろう。