Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0306(考え事まとめ)

 サークルに行きました。疲れた。でも、秋のピエロは楽しい曲。

 どうやら僕は、騒音をカットする機能が弱いように思います。人の話を聞いている時でも、周りの微細な音に気を取られてしまう。みんなそうなのだろうと思っていたのだけど、どうもそういうわけでも無いらしく、これは僕の欠陥なのかなあと思います。その分、他人が気付かない小さな音に気付くことも多くて、それはそれで楽しいのだけど。集中力とは。

 チャーマーズという哲学者がこんなことを言っています。例えば、色というものについてあらゆる知識を持っている盲目の科学者がいるとする。それでも彼は、実際に色を見るまでは、色を実感することはないだろう。故に、認知(とか意識)というものは、物理学の延長上にはない、と。
 僕はこれを聞いた時はなるほど良い例えだと感心したのだけど、今では違うことを考えています。例えば、赤色に反応するセンサーがあるとします。そのセンサーはおそらく、赤を"見て"いるわけではないだろうと思います。ところで、盲目の科学者はそのセンサーを使って赤色を検出し、そこに赤色が在ることを知る。いわゆる赤色の実感を持っているわけではないけれども、赤色をある方法で(聴覚とか触覚による伝達など)知ることができている。どちらかと言うと、赤色の知覚というのは、こういう構図に近いように思うのです。このセンサーが脳の中にある、という違いはあるのだけど。
 先ほどのチャーマーズの議論に返るとこうなります。色についてすべてを知る、ということは、色を検知した自分の脳の状態を知ることであると。ですから、チャーマーズの言う色についての物理的な知識を全て持っているというだけでは、不十分なのです。実際、人間の色覚は、単純に波長と対応しているわけではないと言われます。赤いメガネをかけていても、正常に色を見分けられることが知られている。このことは、検出器とそれを解釈する側が少し離れて稼働していることを示唆しているように、僕には思えるのです。この場合、検出器の反応までが物理的世界の側ですから、意識のハードプロブレムの、神秘的な解釈は排除できるのでは、というのが僕の考える所です。その先は、まだ良くわからないのだけど。結局汎心論に落ち着いたりするのかしら。

 自由意志とは何かについて。
 一般的に言われる意志というものは、自分がただの機械ではないこと、何かに、決定的に操られているわけではないこと、というようなものとして受け取られているように思います。何ものにも操られていないということは、そこで為される意思決定は自分独自のものであって、外からの介入を許さないもの、ということでしょう。けれども、僕らの意思決定は、何かを外界の状況を受けてのものであることに注意すれば、世界を抜きにして意志と呼べるものはあり得ないことになります。では、自分はこれを意図したと信じるこの心の働きはいったい何か、というのが問題でしょう。ここで重要なのは、意志と行為の関係です。
 あらゆる意図は、行為として表出します。例えば、手をあげよう、手をあげるふりしつつそのままでいよう、というように、何を心のなかで叫ぼうと、結局行為したことがその人の意志です。まあ全ての行為が意思に直結するわけでもなくて、例えば、僕は特に意識することなくコーヒーを入れ、マグカップに注いで、飲みます。ここで何か強烈に意識を働かせて、次にどう動こうとか考えているわけではないです。それでも行為することはできている。
 このような状況を、ウィトゲンシュタインはアスペクト盲と呼びました。反転図形が、どちらにも見えていない状況もこれにあたります。そして人は、意外とこういう状態で多くの時を過ごしている。僕は、自分に意識があることを意識していないときに、本当に意識を持っているのだろうかと時々考えます。この議論の流れでゆけば、自意識盲とでも呼べるその状態において、僕は意識を持っていない、そもそもそこに何らかの解釈を見出すことこそが、自意識であると言えるのではないかな、とか。まあ、完全に自分を失っている状況というのも、脳があれだけ様々に働いているのをみれば、なかなかないようにも思うのだけど。
 そうして見れば、人の行為が、その人が意図したものであったとする根拠は、その人がそれを自分の意志の所産あったと信じている、ということ以外にあり得ないように思います。
 前々から言っているけれども、風が吹いた時、その風を自分が吹かせたのだと信じる人にとって、それは彼の意志と行為の発現であり得るのです。実際は、風は自然に吹くのだと反論する人がいるわけだけれども、しかし、脳の中の思考については、それをいう人はいない。頭のなかで勝手気ままに風のように生じる思考たちを、自分が意図したものであると信じこむことを、誰が批判できるだろうか。すべての人がそうであるとして。
 これが事実であったとして、自由意志が存在しないということになるわけではないと僕は思います。自由さの根源をどこに求めるかが変わるだけで、実生活上何かが起こるわけでもありません。一抹の虚しさは拭えないとはいえ。
 最後に、野矢茂樹の文章、これは僕がこの人と話をしてみたいと思った切っ掛けなのだけども、を引用しておきます。誰も彼も、知性というものを世界と独立して捉え過ぎなのだ。

 世界の中で身体を様々に動かすことによって行為する、この常識的な描像を捨て去らねばならない。これまでもしばしば、身体の拡張ということは言われてきた。例えば盲人にとってその白杖はもはや身体の一部とみなされるだろう。あるいは、コックにとっての鍋もまた、身体の一部とみなされうるかもしれない。しかし、行為はそのように拡張された身体をも更に超えて広がっている。盲人が歩くとき、その人は杖はもちろん、道とともに行為する。コックは鍋の中の肉とともに行為し、運転手は車のみならず交差点とともに交差している。(中略)行為とは、身体と環境が呼応しあい一体となって作り出す出来事の姿にほかならない。われわれは世界の中で行為するのではなく、世界とともに行為するのである。