Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

覚え書き

 人の頭も、何かの法則に則って動いています。したがって、超越的に情報のなんたるかが与えられていない限り、そこに意味など無く、何が情報であるかも定義されていないはずです。それなのに、人間は自分が何を考えているかをある程度理解することが出来る。はじめ僕はこれを奇妙なことと感じました。脳が吐き出す思考(解釈)は、知覚したものとの間に対応はあるけども形式的なものに過ぎず、それを自分で理解することが出来るというのは、情報のなんたるか、フォーマットが先立って与えられている必要があるに違いないと考えたのです。しかし僕は形而上学的な意味など信じたくは無かった。それで思いついたのが、知覚して得られた情報の形式でした。人間が外部を知覚する時、視神経や聴神経などを通じて送られてくる情報(一次的な物か二次的なものかは分かりませんが)の形式は一定のはずです。そこで、思考の出力の形式をそちらに合わせれば、自分の思考を外部からの情報と同じ仕方で処理出来る。つまり簡単に言ってしまえば想像と現実とを区別しなければ良いわけです。そうすれば形式的な変換の作業の結果を、これもまた形式的に理解することが出来る。この再帰的な繰り返しが、自己認識の仕組みなのではとか考えたのでした。この考えは僕の実情にも即していて、割と気に入りました。自分で触れることの出来る僕自身の思考は全て、見聞きし感じられる形態をとっていたのです。
 僕は苦手な割に数学にかぶれているので、次のように書いてみることを考えました。
 時刻tにおける自分の心の状態をM_t、世界全体の状態をW_tとします。
 N(x)≡私がxを認識する(というとアレだけども何らかの影響を受けている程度の意)
 こんなふうに関数として定義します。すると、次のような関係が書ける気がしました。
 M_t+1=N(M_t+N(W_t)) (和とか積とか定義していないのでアレですが、とりあえずこう書けたということにします)
 ところで、自然法則を関数L(x)として表すと、世界全体については
 W_t+1=L(W_t)
 とも言える気がします。
 そうすると、はじめの式がどこかおかしい。調べてみると、自分の状態はM_tと置いてしまっていますから、世界全体から自分を除いたものを考えなくてはならないわけです。
 しかし、これをどう表現したものか僕にはわかりません。私の内外を分けて考えると、私の世界に及ぼす影響と、世界が私に及ぼす影響とが入り乱れてしまうのです。そもそも内外の境界がどうなるのかすら怪しい。
 というわけで頓挫したのだけど、世界の内側にいる存在が、自分を含めて世界を計算しようとするとよくわからなくなることは、何か大事なことのように思います。物理の問題が解けるのは、点(点は存在しない)について計算しているからでは、とか。もしかすると人の心も点でなくてはならないのかもしれません。心なんてものが本当にあるのだとしたら。