Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

意味のない話

 意味はありません。

 まずはじめに、以上、つまるところ、こんにちは。誰かが知っているように、北を向いたシャープペンシルは仮借された数式を統べる森羅万象の鍵であるのだが、もう残り少ない錠剤のシートに煙たがられて、折り紙の鶴の突き刺さったペンケースの如く立ち現れて消えることが予想されている。すなわちそれは、竹掛けられたアドレスブックにも似て、盤面を下に置かれている時計を裏返すことを意味しない。このことは、同じく北を向くオムロンの体温計がそうでないことと同じだ。そういうわけで、財布に入りきらないカード類は渾身に力を溜めて伝令を発する。「総員、戦闘配置」
 試みるのは僕で、失敗するのはハルキゲニア製の櫛。哲学探究論理哲学論考との間で板挟みになっている旧式の液晶はタブレットカバーを反射するのみだけども、Rootsの空き缶は墨汁を湛えて小学生を苦行へと誘う。読めるならばそれで全て事もなし、そういう私は彼の敵ではない。買うだけ買って使っていないブギーボードは、故障した例のイヤーホンの創りだす高次結び目を傍目に何かを壁面に隠蔽している。それはそうだ。そうして、僕は食べてしまったのだが、気まずい沈黙がその気まずさを払拭するまでに地球は3千キロほど移動して知らんぷりしている。茶櫃とノートの恋模様や如何に。卓上ランプは赤外光で叫び声を上げ、それからしばらく沈黙する。

 

 知り合いに、内容に関係なく心地よい文章を書く方々がいます。それはリズムだったり言葉遣いだったりという文章の技巧的な部分の卓越によるものだと思うのですが、それをさらに突き詰め、意味はないけれども面白い文章を書こうと考えて、そして失敗しました。つまるところ文章力そのものの抽出ですからね、僕には土台無理だったわけです。けれども、意味を犠牲にすることで単純に文章的技巧に専念するという試みはもっと為されて良い気がするし、これを読んだ誰かがなんか凄いものを書いてくれないかなとか、そういう目論見もあります。僕は最近素敵文章に餓えているのだ。