Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 昨日上手く寝付けなかったせいで全然寝足りなかったのですが、役職の前任から機材を受け取る約束をしていたのでサークルにゆきました。定演を終えてしまって、全体的に緩い感じ。新歓用の曲を練習するなどしました。サッカーによせて、楽しい。

 帰りに吉祥寺で服とゴミ箱を買いました。新しいバイトの関係で襟付きのシャツが必要になったのと、机のそばに置くくず入れが欲しかったのです。僕の机がだんだんと使いづらくなってゆくのは、飲み終わった空き缶等を少し離れたゴミ箱に放るのが面倒でそのまま置きっぱなしにしてしまうからであることにふと気付き気づいたのだ。(大きな進歩)このような例は僕の生活において多々見受けられるのですが、それらに気付いて対処することはまれで、それは僕の一つの欠点を表しているように思えます。すなわち、問題を切り分けて解けるかたちに落としこむこと、これが出来ないのです。おそらく言語的思考力の貧困さによるところが大きいのでしょう。というのも、人類が高次の精神活動を中心とする生活を営んでいる以上、そこにおける気付きというのは、自分でそれが気付きであると認識して初めて成立するのであり、その為には言葉で表現することがとても重要なってくるように思うのです。洞察力を高めてゆかねば。

 帰ってきて、非常に眠たかったので少し眠りました。眠っている間に、万人を天才に変える簡単な方法を発見し、それで世界をユートピアに導く夢を見ました。人混みにまみれて、相当ストレスが溜まっていたようです。夢の中の自分はあらゆる物事に対し高速で了解を下しながら適切に判断を行うことができ、いたるところに大小様々なパタンを見出すことが出来ました。おそらく夢として印象のみを体験していたのでしょうけども、目覚めてそれが夢だったと知った時はとてもがっかりしました。僕の見ている世界は、なんと色褪せていることか。僕はこれに、より豊かな色彩を与えたい。僕にとっての頭の良さとは、享受できる世界の大きさ、解像度のことなのです。