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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

魂の咆哮とか

 自分の魂をうまく叫ばせることができない。自分の心を、どこか冷静に眺めている自分がいる。そいつがいつからいたのかは、よくわからない。最初からいた気がするし、最近獲得したものであるような気もする。昔はもうちょっと感情的だったと思うのだけれど、でもそれは単に感情的ってだけで、魂の奥底から震えるような熱量は伴っていなかったように思う。少なくとも、日記を読み返した限りでは、そういう文章にはほとんど出会えない。自分が文章を書くというプロセスに必然的に紛れ込む形式なのだろうか。それとも、僕は普遍的に冷めた奴なのだろうか。いやいや、そんなことはないでしょう、多分。

 朝早くに起きると何かしら書きたくなって良くない。別に良くなくはない。手癖でそう書いてしまった。そのこと自体は良くないことだと思う。

 飲み屋で酔っ払った文学的内向的青年が、隣の客に向かって、人生だとか愛だとかはたまた物理学だとかについて一席ぶつような調子が僕には欠けている、と思う。欠けていると思うのはつまり欲しいってことで、それではだったら酔っ払ってしまえばいいじゃないかってなるんだけれど、残念なことに僕はそんな風に上手には酔えない。普通に知能が下がるし言葉も出てこなくなる。僕は賢い自分が好きだし、もっと賢くなればもっと自分を愛せるようになれると信じているけど、そんな自分は嫌いです。こういう「です」の挟み方は「バナナ剥きには最適の日々」で学びました。バナナフィッシュにうってつけの日。そう、サリンジャーね、ああいう感じの語りかけるような文体にはすごく憧れるんだけれど僕には語りかける相手が外にも自分の中にもいないから難しい。そう、僕は自分と話をするのがすごく苦手なのだ。昔からいろんな人に「君はいつだって君だ」と言われる。常に自分が統一されているということ。そういうことを言ってくるのがみんな森博嗣読者なのはちょっと面白いなって思っている。君は天才じゃないって面と向かって言われている気分だ。そしてもちろん、僕は天才じゃあない。
 まあというわけで僕はいつだって一人ぼっちだから話し相手がいなくって、だから言葉の調子もひとりよがりなものになる、という話をしているような風になってしまっているのだけれど、そんなの半分嘘っぱちだとも思う。そんな迂遠な理屈は必要ではなくて、単に僕は言葉の扱いが下手くそだと言えば事足りる。理屈を付けたくなる心境の一部は必然性に責任とか後悔とか諸々を放り投げてしまいたい気持ちなのであって、つまり僕は自分を適切に諦めさせる物語を探しているのかもしれない。嘘だといいなあ。
 しかしまあ一方で、理屈からはさらなる帰結を引き出すことが出来るという尊い利点が存在していて、この場合はつまり僕は人とか自分に語りかける練習をしましょうってことになる。ちょっと酔っ払ったような調子でさ。他人でも、自分の中に作り上げられた誰かにだって良い。だんだんと調子を帯びていって、よくわからないけれども目頭とか熱くしちゃって、自分でも何言ってるかわからないんだけれど、でも何か心の奥底とはアクセスが繋がっている、そういう語り口でさ。

 この前Ask.fmに愛ってなんですかって質問が来ていました。なんで僕に聞くんだという感じがしたけれど、愛について考えたことなんてちっともなかったから(有名な詩人とかに任せとけばいいさと思っていたのです)、ちょっと考えてみることに。はじめは、実存は本質に先立つのだ的な解答をしてお茶を濁そうと思ったのですが、僕の尊敬する某哲学者によれば言葉の意味というのはその使用なのであって、じゃあそのへんから引っ張り出せるお話というのもあるのではなかろうかと思い直してちょっと粘ってみました。
 愛って所有とその維持の欲求に近いのではないかなってのが最初に思いついたことです。つまり対象に自分の意のままになってほしいという気持ちです。例えば僕は今こうやって文章を書いているコンピュータが好きだけれど、これが誰かその辺の他人のものだったとしたら別段好きでもなんでもないと思います。今まで使ってきた思い出とか中身に保存された情報とか、そういうものたちに対する執着の総和がこの愛着を作っている。そして愛着から、変化を嫌う気持ちが生じてきたりする。壊れたら嫌だなあ。
 ただ、人間に対する愛情ってもう少し複雑です。相手にも意思があることを前提として含んだ執着であるから、相手に自分を好いてもらいたいという気持ちが出てくる。それから、変化し成長し自分のところから巣立ってゆくものに対する愛情ってのもあるらしい。まあこれらは実際は自分の中にある対象の像を大事に大事に守り続けることの裏返しみたいなもんだとも思うのだけれど、まあそういう愛の形式があるということに一応はなっている。そういうのを全部ひっくるめて抽象して、なにか正しいことを言っているっぽい物言いは出来ないかしらんと考えてみて、自分の意志に世界がよく反応することを期待する気持ち、あたりが適当かなあとなりました。あんまりひっくるめすぎて、それってつまり生きることそのものではないかって感じなんだけれどまあ、人は愛に生きているのだってことでいいじゃないですか(適当)。