Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 今日の午前中は講義がなかったので秋葉原ヨドバシカメラへ行って、昨日ツイッタでフォロワに教えてもらった中からEtymotic Research hf5というイヤホンを買いました。このあいだ壊れたのがATH-CKS99で、それと比べて低音はあんまり鳴らないのだけれど、音の滑らかさと解像度は圧倒的です。歌手の息遣いとかピアノの鍵盤を叩くこつりという音など聞こえてくる。良い買い物をしたと思います。

 それからバスへ乗って本郷へ。正門から入ると携帯で写真を撮っている人が沢山いて、なんだろうと思って見てみると、構内のイチョウが紅葉していました。陽光を浴びてきらきらした葉っぱが本当に綺麗で、眺めていて楽しい気持ちになります。講義に遅刻していたのでそんなに見ている暇はなかったのですけれど。今度、木々の葉っぱをその精緻さと奥行きを損なわずに絵にする方法を考えようと思います。

 家に帰ってから適当に落書きをしました。それが絵であることを認めてしまえば、案外それっぽいものを書けるのですよね。僕は本当はそんなものを書きたいわけではないのだけれど。たぶん僕のこだわりは描くものよりも描き方にあって、だからなにか一つテーマを定めていろんな切り口を試してみるのが良いのかもしれない、とふと思いました。なんにしよう。最近は木を眺めるのが好きだから、それかな。

 僕の中でものの想像のされ方には二通りあって、ひとつは頭の奥のほうに浮かぶもの、もうひとつは閉じたまぶたの裏に浮かぶものなのだけれど、この二つは種類がまったく違うという予感があります。前者が普通の想像のされ方で、後者が瞑想していたりぼーっと考えごとをしていたりするときに少し特殊な想像のされ方です。脳は想像と記憶を区別しているという話をどこかで聞きましたが、それと関わっているのだろうか。
 そういえば今日ふと気になることがあって図書館で共感覚についての本を一冊ぱらぱら読んでみたのですけれども、瞑想しているときの頭の働きは、共感覚に近いものなのだそうです。それからこの前インターネットの記事でシロシビンを摂取すると感覚が交差するという話も読んだな。こういう、複数の脳の領域が混ざるというのは、普通に生きる上では別に必要ないのだろうけれども、記憶の取っ掛かりをたくさん作れるという点でやっぱり便利そうだなあと思いました。文字が風景に見えたら、きっともっと楽に覚えたり思い出せたりするに違いない。とか。それから、意識下の情報にアクセス出来てるっぽいとことか憧れるよね。僕は自分の中に意識的に介入できる領域を増やしたくて、その為にはまずそれを観測できる必要がある。もう少しまじめに瞑想とかやってみるかなあ。あ、そうそう。感覚が混ざることはあっても、感覚が増えることはないっぽいの面白いよね、ということを思いました。色とか質感とか、とにかく既存の感覚に対応付けられる必要があるっぽいこと。いや、当然かもしれないな、これ。ううむ。それから、書記素という概念を知ったのでこれと文字を認識することとをもうちょっと考えたり調べたりしてみたい。

 お風呂に入って、それから数学でもしましょう。お勉強ブログも書かなきゃ。