Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 左肩周りが痛いです。血の巡りが滞っている感じがある。

 「共に生きる知恵」の講義で自分が担当する回の資料を受け取りにゆきました。「教育心理学概論」という本。講義までにそれを読んで授業内で議論するテーマを考えてこいとのこと。ぱらぱら読んでみた感じ結構面白いです。人間が物事を理解するとはどういうことか、様々な実験結果を交えて書かれているのですけど、こういうのを読むたびに人間の愚かさと、そして自分が人間に含まれることに絶望します。とはいえそこで指摘されている認知バイアスのいくつかを自分がほぼ完全に回避できているぽいことに関しては嬉しくもありましたが。それから、内容の類似性を感じて、以前読んだ「理解とは何か」という本を本棚から引っ張りだしてみたところ案の定同じ著者でした。こういう過去の知識から関係のあるものを探索する能力は僕の強みかもしれないと最近ちょっと思っています。過大評価かな。

 適当に講義受けたりゼミに出たりして帰宅。左肩周りもそうですが、全体的に体調が良くないです。すぐ疲れてしまって、やりたいことがちっともやれていない。Code Festivalの過去問とかアルゴリズムの勉強とか「知能の心理学」の続きとかお絵描きとか文章書きとかたくさんしたいことがあったのだけれど。ここのところ毎日そんな感じで、まじめに大学に通うと自分のために使える時間とエネルギィが消滅してしまう。これが仕事になったら、もっと自由さは減るに違いありません。そんな生活に自我をすり減らして、呆けた頭で「良い人生だった」とか言う老人に僕はなりたくない。生活を維持するために必要な社会との関わりを可能な限り減らすための戦略を考えることと、それと単純な体力の強化を図らねばなりません。身体的なものはもちろん、心の体力も。それから、疲労した脳みそを短い時間でもとに戻す方法も考えなくちゃ。ノイマンは睡眠を4時間半に限定して、それ以外の時間をすべて思考に回していたといいます。あれほど頭の良い人なのだから、睡眠不足で結局のところ無駄をするということにはしなかっただろうし、やりようによってはそういうことも可能なのでしょう。彼にできて僕にできないことなどあるまい(半分冗談)。


 ふと、浪人時代によく自習していた、市立図書館の自習室の風景を思い出しました。白い天板がつるつるひんやりした机が10個位置いてあって、僕はその内の一つに陣取っている。平日だからほとんど人はいなくって、僕が座っている椅子とコンクリートの床が擦れる音が少し残響を残して空っぽの室内に響く。その自習室図書館の最上階にあって、窓が沢山あるから、市内の全域が見渡せる。ちょっと離れたところに自分の住んでいるマンションが見える。季節は秋~春だろうか、空気が住んでいて、からっと晴れた空が青くて明るい。僕は机の上に勉強道具を積んで、図書館から借りた本を読んでいる。タイトルは「フォン・ノイマンの生涯」。内容自体は全然面白くないけれど、Wikipediaに載っているほどノイマンは超人ではなくて、少し親近感を覚えてもいる。それから、筆者がノイマンをジョニーと呼ぶのがなんか気に食わなかったな。伝記を書くなら、もう少し客観的に書いておくれ、とか。そんな風に適当に本を読んで、勉強道具には一切手を付けず、Twitterに書き込んだり、それからお腹が減ったら母の作ってくれたお弁当を食べる、というのが僕の浪人時代でした。よく大学に受かったな、僕。