Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 体調の悪い一日でした。いつの間にか12月になってるし。

 今朝は7時半頃に目覚めたので、家を出るまでに少し本でも読んで言葉を覚えようかと思いBoy's Surfaceを紐解いたのですが、その言葉の並びが思ったほど心地よいものに感じられなくて、それで自分の体調の悪さを自覚しました。身体の調子が悪いと美を感じる部分がエネルギィを回してもらえなくなるのかいつもより無感動になるのです。

 二限の講義はこれ以上欠席すると単位が危ういので重い身体を魂でもって引っ張って大学までゆきました。健全な精神は健全な肉体に宿るとは言ったもので、終始いらいらするし五感はうまく働かないしで嫌な気分です。もちろんそんな重大な不調ではないのだけれど、最近精神の調子が良くて世界を澄明に感ぜられていただけに些細な不調でバランスを崩す自分のままならなさに腹が立つ。もうちょっとうまくやれるはずだったのだけれど、もしかしてそれはただの幻想だったのだろうかと不安になります。出来たと思えたことが後になって気の迷いだったと判明するのはすごく嫌なことだし、もう繰り返したくないのです。

 終始だるだるだったのだけれど頑張って5限まで耐えました。5限は共に生きる知恵の講座で、今日は宗教と共生の話。宗教は異文化理解という形で問題設定されることが多いけれども、実際の社会に根ざして考えれば、あれはつまり公平性の議論なのだ、というような内容でした。まあ確かにそうだよね、という感じではあります。が、そうしてみるとどうして宗教を特殊化して扱うのかよくわからない。そういうパースペクティブが一般的に受け入れられているから、そこにのっかっているのかしら。あるいは、優先度の問題かしら。
 ふと、人間はもとより合理的に対立する生き物で、その理由付けとして文化的な差異などを持ちだしているだけなのではないか、ということを考えました。どんな特殊な集団の中にも普通の概念が生じるように、対立という図式も必然的に現れる構造なのではないか。人が本当に一つになるためには、とある遺伝子のスイッチを切る必要があるのではないか、とか。
 宗教は、ある特定の時代、環境において有用であった道徳や習慣のセットなのではないか、と思います。それがいつの間にか戒律と化し、それを遵守することそれ自体が意味を持つようになってしまっている。はなはだ合理的でない、と思うのだけれど、彼らはいつまでこうしているのでしょうか。例えば食料が不足して豚肉しかなくなってしまったとしても(そんなことはないでしょうけれど)、イスラムの人たちは豚を食べないのだろうか。それともそういう時には新しい神だか預言者だかが現れて、新しい戒律を授けていってくれるのか。
 「信念」って、けっこうな贅沢よね。