Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 人間のあらゆる活動は、様々な価値体系および集団の形態に特徴付けられた生存闘争の表現として説明できるのではないか、ということを考えています。その闘争を国家対国家の構図で見れば、そこにおける個人の比重によって資本主義と社会主義が連続的に現れてくるし、その内部にさらに踏み込めば、また違った価値体系において似たような構図がフラクタルのようにまた現れてくる。この入れ子構造の単純さが社会主義の特徴だろうし、その逆が資本主義だろうと思います。そしてそれぞれの階層における集団同士の闘争は、対外的な脅威があって初めて安定する。なぜなら人が集団を構成する理由がそこにあるから。そして外敵を失って不安定化したある集団は、今度はその内部集団における闘争へと一段階レイヤーを落とすことによって活力と安定を得る。そうしたことの繰り返しによって、人間の世界は回ってきたのではないかと考えています。
 ところで、消費社会という社会形態は、大きな戦争が生じなくなったことによる余剰の生産力の捌け口として成立したのだという話があります。外敵を失った集団が不安定化し、しかしそれまでに弾みのついていた生産力の拡大と技術発展を軟着陸させることが出来なかったため、その巨大なプロセスを維持するためのエネルギィを、より低い闘争レイヤーに求めたと言えるかもしれません。しかしそれはあまりに急激な変化であったがために、人為的に経済的競争を生じさせる必要があった。消費社会は流行とその陳腐化のサイクルを特徴としているわけですが、それはつまり個人と個人の戦いが煽られ続けているということでしょう。ところがこの個人の間の闘争には弱点があって、それはつまりこれ以上レイヤーを落としようがないということです(少なくとも法治国家の内部では)。したがってこの構図において人間関係の複雑化重層化や嗜好の多様化、生活水準の向上によって、人がものを望まなくなる事態は危機的です。ただでさえ機械化によって拡大している生産力が、より一層余ることになる。そうなれば雇用はますます減少し、それに適応した僕らはより一層望まなくなるかもしれない。しかしその繰り返しはどこかで破綻するでしょう。なぜなら現代の人間のほとんどは、労働以外に金銭を得る道がないからです。その状況が維持されれば、どこかで社会という幻想が消滅し、より原始的な、暴力的な闘争状態へと移行するかもわからない。あるいはもっと穏やかなシナリオとしては、特定の人達にしわ寄せしてしまって、それを見て見ぬふりしながら生産を縮小安定化してゆくことでしょうか。こうした見方はかなり悲観的なものだし、僕の妄想も多分に含まれているのでアレですが、しかし同時にあり得ない話でもないだろうと考えています。もし仮に自転車操業を頑張って続けたところで、おそらく地球がもたないし、なにより複雑高度化するトレンドに人類がついてゆけなくなるでしょう。人間の知性か地球の資源かはたまた別の要素が限界にぶち当たった時、勢いのついた世界をいなしてくれるものがあるだろうか、と思います。やっぱただじゃすまないんじゃないかな。その時僕はどうするのが良いのだろう。よくわかりません。人工知性様の到来に賭けるか。


 大学帰りに髪を切りました。もうちょっと短くすれば良かったかなー。