Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

メモ(1220)

 先日の日記に思考は行為であり、ゆえに思考の構造は世界の構造であると書いた。これをもう少し詳しく書き残しておく。このことは同じく行為の実践の場である身体との類比で考えればわかりやすいと思う。例えば、右手をグーにしつつチョキをつくることはできない。これは物理的な制約であるが、思考における論理的制約と対応している。P∧¬Pが成り立たないと我々が信じるのは、これと同じ意味においてなのである。もちろん「グー」だとか「チョキ」だとかを認識するのは思考の働きであるから、これはあくまでも類比で捉えるしかない。あるいはこうも言える。思考と身体的行為の間には連続があるので、そのどちらかによってもう片方を完全に説明することはできない。しかしこう説明することによって、異なるようにみえるいくつかのものを同じ仕方で扱う可能性を示すことが出来る。そこにおいて論理的正当性などは意味を持たないが、しかし明らかに示されるものものもまた確かにあると僕は信じる。
 要素命題という考えがあったが、思考が行為であるという考えの中では、これは感覚所与であると捉えることが出来るのではないかと思う。すなわち、赤さや動き、AとBは異なる、あるいはCとDは同一である、という直観である。差異化や同一化は判断の働きではないかという反論があるかもしれないが、しかし我々が普通に生きる上で、対称の認識が意識的に行われることはほとんどなく、これは所与として扱っても良いのではないか、と思う。さて、これらの感覚は実際のところ恒常性をもたない。錯視のことを考えれば明らかだが、状況によって我々の直観的判断は容易に変化するのである。
 これらを踏まえて、論理の構造について考えてみよう。まず、我々が論理を構成する前段階として、直感によって対象を認識する過程がある。ここにおいていわゆる要素命題が形作られる。例えば雨が降っているという事態をPとして表現するような働きである。このようなことが可能であることは、世界の構造による。手を挙げることができること同じ意味において、雨が降っているという認識が可能であることに注意されたい。
 雨が降っていてかつ雨が降っていないという事態、すなわちP∧¬Pが成り立たないという認識は、事態の要素命題化が起こって初めて可能である。これは世界の可能性ではなく、論理側の制約である。ここでの論理は、包含関係に基盤をおいていると思われるが、包含関係をもとに論理を考えることは、これもまた行為である。すなわち、図を書き、P∧¬Pが成り立っている箇所はないことを確認することと同じなのである。しかし、図を書きP∧¬Pの不成立を確かめるときにもまた、我々は事態の要素命題化を行っている。ここに一つの循環がある。
 このように考えることによって、我々が例えば、直観的に対偶律を理解しないが、論理によって対偶律を示すことが出来、それによって世界の唯一の正しい構造を明らかにしたと言いたくなる気持ちに一つの反論を加える事が出来る。すなわち、ここにおいて我々はひとつの図式を眺め、それを了解したに過ぎないのだということである。ここにおいて論理もまた行為である。
 論理の源にあるものがそのような恒常性すら担保されていない直観的な認識であるとすれば、論理の正しさはどこから来るのか、と問う人があるかも知れない。しかし考えてみて欲しい。普通一般の認識では、論理的正しさと世界との間には対応はないではないか。例えば今日の雲の形から明日の天気が「証明できる」などということはないではないか。世界の最小の構成要素についての論理学が見つかればその限りではないかもしれないが。
 したがって論理の正しさは論理の内に閉じていることがはっきりしたと思う。論理や思考は、世界について語っているように見えて、実際は要素命題間の規則を語るのみなのである。しかしその論理の規則が健全性や完全性を持っているようにみえること(その証明は困難であったりするが)がどうしてなのかは、もう少し考えて見る必要がある。