Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

南北線のホームドアの話

 昼ごろ渋谷で友人と会う予定があったので、僕は南北線の電車に乗って永田町駅に向かっていた。日曜のこの時間の電車だとたいていそこまで混んでいなくて、席に座ることができる。人と密着するのがそんなに好きではないから、このくらいの混み具合だとかえって立っていることが多いのだけれど、永田町駅までの時間を考えて、座っておくことにした。正面の席には理知的な顔をした少年が座っていて、大手中学受験予備校の問題集を解いている。子供は手首の力が小さいからか、文字を書くときの動作が大きい。それがなんだかとても懐かしくって、しかし僕はもうそういう時代はとうの昔に消化してしまったのだという認識が懐古趣味を諌める。
 隣に座っていたのは、二人の小さな子供だった。姉弟らしく、弟の方は母親の膝に乗っかっている。姉の方はじっと座っているのに耐えられないのか、足をじたばたさせて踵で椅子の下の部分を蹴っていた。いつもだったら少し居心地の悪い気分になっていただろう。僕は、子供の無邪気さに対する公共の圧力があまり好きではない。まるで自分が責められているように錯覚してしまうのだ。けれども今日に限っては、電車に人が少なかったことや、外国人の乗客が大きめの声でしゃべっていたこともあって、割と寛容な空気が流れていた。もしかするとそうした感覚は、単に僕の精神状態を反映しているのかもしれない。
 ポケットに入れていたウィトゲンシュタイン・セレクションの数学の哲学のところを読みながら、何気なく子どもたちとその母親の会話に耳を傾けていると、南北線のホームドアの色についての話をしていた。ホームドアというのは、地下鉄の駅のホームの側にある自動ドアで、線路への転落や電車との接触事故を防ぐ目的で設置されている。そのドアの色が、橙色、黄色、緑色の順番になっている、というのだ。僕は通学に南北線を使っていて、何度もそれを眺めているはずなのだが、ドアの色が異なっていることにこれまで気づいていなかった。思った以上に多くの規則が日常にはあふれているのだなあと感じ入り、それから子どもたちの観察力というのはすごいものだなと関心したのだが、考えてみるとその母親がもともとドアの色のことを知っていて、子どもたちを大人しくさせるためにそれを教えたのかもしれない。本当のところはわからない。
 駅に止まるたびに子どもたちはホームドアの色を確かめる。橙色、黄色、緑色、青色、紫。次は何色だろう、と子どもたちは言う。僕はこの時点で色の並びの意味に気づいていたから、あと一色来るだろうと予想していたのだけれど、その母親は、次はまた橙色に戻ると思うよ、と言った。
 そのとき、もう一色ありますよ、という声があった。先ほどの少年である。親子の会話を聞いていて、どうしても口を挟みたくなったのだろう。思い切った感情に特有の照れみたいなものを眼と口の端に浮かべていたのが印象的だった。母親は、もう一色あるんだってと、子どもたちに言った。そこでは少年と子どもたちとが滑らかに連続されていた。彼らがただ同じ電車に乗り合わせただけの他人同士であることなどなんの意味も持たなかった。僕はなんとなく気分が良くなって、それからまた本のページに目を戻した。
 次の駅のホームドアはもちろん、赤色だった。