Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 唐突にお話を書きたい気分が湧いてきたので、さきのことを考えずにひとまず書き始めてみたのですが、案の定詰まりました。僕が話を書くとどうして毎回こういう方向にゆくのですかね。供養のためにこの日記の最後に乗っけておきます。

 夜はProcessingでアニメーションを作って遊んでいました。ラミエルっぽく立体を変形させられないだろうかと考えて、2つの立体の各点を結んだ立体を4つ目の軸で切断するような処理を書いてみたのですが、あんまりかっこよくなりません。まあProcessingの基礎的な部分を理解できたので良しとする。今度は超立方体あたりに挑戦してみたいところ。


 どうやら数学を勉強しなくてはならないらしい、と天才少女は結論づけた。天才少女は確かに天才だったけれど、数学についてはまだそんなに知らない。単純な四則計算を使って、数値に関わる身の回りの出来事を処理したり推察したりすることは、それこそ桁外れな速度と精度で行えたけれども、彼女の数に対する興味はそこまでに限定されていた。彼女が興味を持っていたのは、自分自身と身の回りのこと。いかに母親のご機嫌を取るかとか、自分とは何かとか、隣に住んでいる男の子のこととか、そういうことばかりだった。そしてそういった個別の出来事に関しては、わざわざ数式として落としこまないでもきちんと解決する方法を彼女は知っていた。彼女の興味は彼女が天才少女であることの条件によってひどく限局されていて、そういう才能が外の世界に目を向けるようなるためには、適切なきっかけに恵まれる必要がある。そして今回そのきっかけとなったのは、街の本屋さんで神経科学の本を立ち読みしたことだった。
 天才少女は自分という観念を認識して以来、一貫して自意識の不思議さに魅入られていた。どうして私は私なのだろう。いったいどういう仕組があれば、私と他者を区別することができるだろうか。例えば自分の母と父は、自分から見て他者だけれども、どうやら母から見れば他者であるのは私と父の方であるらしい。それは私と他者の対称性を意味している。一方で、私はつねに私でありそれ以外の何者でもない、という実感があり、ここでは私と他者の関係は非対称的なものとして現れている。こうしたことが起こりうるのはどうしてなのか。幼い天才少女は日々考えを巡らせていた。ときには、きちんとした意味で世界に存在しているのは私だけなのだなどと考えてみたりもした。父も母も実は「私」を持たない見せかけの存在で、彼らは本当は私と同じようには「私」を持ってはいないのではないか。もしそうであるならば、私も彼らと同じ人間である以上、「私」を主張する仕方は彼らと同じであると考えるほうが自然だけれど、そのとき私と彼らを区別するものは、将棋の玉将と王将の違いのように、世界のルールの外側にあることになってしまう。それは天才少女には我慢のならないことであった。不思議さの根拠を世界の仕組みに投げてしまうというようなことは。そんなのはただの諦めだと、天才少女は天才少女らしく思っていた。
 「私」の条件とはなんだろう。「私」は人間である必要があるのだろうか。例えば私が植物や縫いぐるみであったとして。いや、植物や縫いぐるみは、人間にとっては一つの概念としてあるけれども、ここではそんな分類は避けるべきだろう。私が世界の任意の部分であったとして。そういうことはありえるだろうか。ここで問題になるのは、自己認識の有無だ、と少女は考えた。自分のことを知らない「私」という考えは可能か、ということだ。もし可能であるとしたら、それはどういう意味で、だろうか。結局、「私」とはこの世界全体のことである、ということになってしまうのか。これらの考えがある種の言葉遊びだということを天才少女は了解していたが、しかし人が考えるというメカニズムについてきちんと把握しておく必要はありそうだ、とも彼女は悟った。
 人間は脳によって考えているということは事実らしいこととして少女は知っていた。脳。しかしそれがどういうふうに思考するのかということについてはあまり考えたことがなかった。思考を担う機関は哲学的な舞台装置として彼女の思索に登場してはいたが、その内部に踏み込む必要はそれまで感じていなかったのである。感覚所与に対して構造的に反応を返す箱であれば十分だと考えていた。そうした扱いをなんら不自然に感じないことは天才少女の強みであり弱みでもあったのだが、幼い少女はまだそのことに気づいてはいない。ともあれ、ここで彼女は脳の働きに興味を抱いた。これが一つのきっかけである。
 彼女は以前に眺めたことのある百科事典の脳の項を脳裏に思い浮かべた。脳が脳について考えているのはちょっと面白い構図だなあ、と考えながら、彼女は頭のなかに浮かんだ文字と図を読む。
 天才少女は天才少女らしく記憶を絵として蓄える能力、いわゆる直観像記憶の能力を持っている。人は誰しも幼いころはそういう能力を持っているものなのだが、たいていは成長とともにそれを失ってゆく。天才少女も一度はその手の記憶の仕方を失くしかけたのだけれど、自分の記憶力が下がってゆくことに危機感を覚えた彼女は、訓練によってそれを維持した。早熟で高度な自己認識が天才少女が天才少女たる所以なのである。