Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0223

 いったい自分がどのように生きたいのか、どのような人間になりたいのかわかりません。いや、それは適当ではない。生きたい生き方、なりたい人間のうち、どれを選べば良いのかわからないのです。それぞれがすべて、僕が全力をかけて目指すべきもののように思われるのですが、それらには相反する要素が多く、また僕の能力から言ってどれかを選ぶことはどれかを選ばないことに直結する。何かを選択した時点で、その他の可能性は消えるのです。しかし何も選ばなければ、何もなすことなく人生が終わってしまう。どうすれば物事に優先順位を付けられるのでしょう、それは何に基づいて判定されるのでしょう。僕自身は僕のものさしに成れない気がする。
 僕は自分に似ていてかつ自分より先を進んでいる人間を見つけるとすぐ模倣してみるのですが、それを憧れと呼ばれて、妙な気分になりました。どちらかと言えば、これはショートカット。
 今日は少し憂鬱な気分だったので、しばらく瞑想をしていました。
 自分の精神を観察して、反応系を整え、穏やかで安定した人間になることはひとつの理想ではあります。けれども同時に、ひねくれて不安定な自分がそんなに嫌いでもなくて、それから離れることを考えると少しさびしく感じもするのです。昔好きだった本を、再読して楽しめなかった時のかなしさに似ています。そういう時に僕は、かつての自分を裏切ってしまったような罪悪感にとらわれるのです。価値観の変化によって思い出の価値が薄れることを恐れているのかもしれない。なにせ僕は、自分にとって心地よかったことしか覚えていないから。あるいはもっと問題は別のところ、自分が他人にどのように見られているか、見られたいかというところにあるかもしれない。なんにせよこういうことを考えてしまうからか、今日もうまく瞑想に入ることができず、これらの思考を消し去ってしまうことも出来ませんでした。これもきっと自己分析の形をした巧妙な偽装なのだろうと思うのですが、偽装されているのでよくわかりません。そもそも、本心なる言葉がどのような条件下で成り立つのかすら覚束ないのだ。いったい僕は何がしたいのか。自分自身を適切に評価できません。きっと傍から見た僕は、傲慢で無能な、かわいそうな存在に違いない。
 こういう文章を書くと、自分が自分のことしか考えていないことが明らかになって良くないですね。そう言えば高機能自閉症者の文章には明らかな特徴があるとどこかの本で読んだけれども、この日記の文章もそうなのだろうか。とか考えて、「スティグマを持つものはしばしばスティグマを余得とする」という言葉が頭をよぎります。疾病利得というやつ。こういう自意識の慰め方もいい加減やめねばなりませんね。自分に欠陥があろうとなかろうと、僕はみんなと同じ土俵で生きてゆかねばならないのだ。ある地点から見て、それが利得に思えたとしても。
 テキスト9を読み終えました。なんと言うか、ひどい本です。(褒めている) 前半は銀河ヒッチハイクガイド的なスラップスティックさがあったのですが、後半に至るに連れて現実が相対的に分かれていって、最後は何がなんだかわからなかった。自分の見ている現実が実は翻訳後のものであるというのがお話の肝なのですが、それって実際のところ言語の本質的な機能だし、そもそも本当の現実なるものがそういうものだとすれば、これはそこまで変な話でもないのですよね。その点で、わけのわからない話を書こうとしてわけのわからない話を書いている感は拭えなかった。僕はやっぱり、円城塔のようなわけのわかるわけのわからない話のほうが好きです。