Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0315

 もっと日記を考えて書くべきだなと、ふと部屋の片付けの合間に目に入ったウィトゲンシュタイン哲学宗教日記を読んで考えた。これは非常に残念なことなのだけれど、僕は頭を使うことそのものはそれほど好きではないらしく、例えば適切な表現に悩んだ場合、書かないか常套の手段・作文技術に訴えるかのどちらかを選びがちである。僕の場合これに似た状況はあらゆる行為に対して発生していて、折衷案として、その都度の思考を出来るだけ減らすためにスキルを求める。どうして僕は絵が描けないのだろうと言う時、本当は僕は、どうして呼吸するように絵が描けないのだろう面倒くさいじゃないかと本心では考えているのだ。何かを描いている時に、その描いているということそのものには邪魔されたくないという気持ちだ。日記の話に戻るけれども、自分の考えを文章にするのは、当たり前に難しい。他の人にとってはどうか知らないが、少なくとも僕の思考というのはもやもやしていて、自分では意識しづらく、無理にそうしようと思うならば、漠然とした着想に内語やイメージをぶつけてみて結晶化する様子を観察するしかない。そしてその思考の現れは紙面に対する立体図形のように、本来的にその全体を維持して言葉にするのは不可能なたぐいのものだ。だから、どうしてもある視座を導入する必要があるし、その視座において眺めたそれを、丁寧に写しとる作業が必要になる。しかし一方では、そのもやもやをあるがままに受け止めるなら、少なくともそのような思考についての納得とか違和感とかいう思考に付随する感覚的なもの自体は常に感じ取ることが出来るから、べつにそれで十分ではないかと思いがちなのだ。僕は僕が何を考えているか、ある意味では知っている、言葉にすることは出来ないが、と。もちろんそれは一つの方法であって、その場合日記なんてやめてしまえばいいのだが、でもやっぱり僕は格好良い文章が書けるようになりたいし、読んで面白いものを提示できるようになりたい。高校の時に、同級生の文章を読んで感じた自分との距離とそれによる憧れをまだ憶えているし、また、言葉にしづらい思考の内容を手探りで表現してゆく際、自ずと格好の良い言葉が形作られてゆくことがあるのも知っている。だからこれは再確認であり、実践だ。

 サークルに行きました。なんか今日の練習風景をブログに書けとの事だったので、何を書こうかなとか考えながら練習していたのですが、あんまり書ける気がしません。というのも、僕は未だに練習で行われていることが何を目的としてどのような意図で行われているかということを頭のなかで整理できていないのです。例えば顔を書くときに、眼や口や鼻について知識を持っていれば、それらの配置とバランスを考えることが出来るわけだけれども、ただの模様として顔を認識した時、どこに注力すれば、(一般の人間を観客にとって)良い絵となるか分からないことに似ています。要するに僕は頭が悪いのだ。どうしたものか。

 夜から明け方にかけて、引っ越しに備えて荷物を整理していました。二年間の痕跡が少しずつ消えてゆく様子に、記憶媒体のフォーマットの進捗バーを眺めているような切ない気持ちになります。自室のものの配置は、様々な理由によっていて、部屋の片付けは、それらの理由と思い出へのアクセスを失っていくことのように思われるのです。愛着というのは厄介ですね。つまらない僕をつまらない僕に押しとどめているのは、きっとこれなのだ。