Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0410

 身体の調子が良くありません。すぐ疲れてしまう。栄養が足りてないのかしら。

 精神医学の講義を聴きに行ってみました。そこそこ活気があって面白そうなので受講してみようと思います。しかし正常/異常、健康/病気の区別は、やはり難しいです。本人が困難を感じている、ということが本質的なわけだけれども、例えば僕みたいな人間が勉強に集中できなくてつらい思いをしているといったところで、重度の知的障害を抱えている人間と比べれば優先度は低くなります。比較可能な部分で対応するしかないのだから、当然です。しかし、理想と現実の乖離に悩む人間は僕を含めてたくさんいるし、僕自身、どうしたものかわかりません。支援が受けられるなら受けたい。ところで、彼らや僕の心に、君はありのままの君で良いのだというような無償の肯定は響きません。操作的な方法で人間に順序を付けることは可能であるということをすでに知ってしまっており、それが自分の内外の関係、立場と複雑に癒着してしまっているから、そのような操作的評価を放り投げることは容易には出来ないのです。だから、この手の人たちに自尊感情を取り戻させるためには、何かしらの長所を発見したり、価値観を変えたりするといった、ある種の人間的な変化を促すしかないのではないか、と思います。人格を社会や個人の能力に合わせてリデザインすること、それが、精神を癒やすということの中心的な営みなのではないか、とか考えてみたのでした。まあこの認識もまた講義を通して変容してゆくのでしょうが。うん、要はそういうことなのだ。

 夕方からサークル。体操発生の段階で大分体が疲れてしまって、思うように歌えませんでした。新歓合唱祭までには回復しとかねば。

 昼間は暑かったのに、夜は急に冷え込んでしまって、震えながら家に帰りました。他のみんなは、天気予報を見て暖かい服装を用意して来ていたようで、天気予報って便利だなあとあらためて思いました。それから、こちらが意図や着想に関係なく生活周りの情報を提供してくれる点で、テレビやラジオのような一方通行のメディアの有用性があるのだな、とも。今度安いのを買ってくるか。