Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

読みやすい文章

 読みやすい文章は読みやすいなあって感じるんだけど、いったいどうして読みやすいのかはよくわからないことが多い。リズムが良いとか、言葉の選択、言い回しが適切なのだと説明してみて、では、リズムが、言葉選びが良いとはどういうことか、となる。
 とはいえ、皆目わからないかというと嘘になる。ここ二年くらい、正統を学んだわけではないにせよ、文章を書くことを楽しみにしてきただけの積み重ねはもちろんある。
 その中でもっとも大切なのが、よく考えられているということだと思う。これは、文章構成がよく考えられているというだけのことではない。内容そのものが深く掘り下げられていて、しかも過不足のない説明が加えられているとき、一言一言が染み渡るように理解されるのだ。たぶん、即座には内容が理解できないことがポイントなのだろうと思う。読みやすさと真逆のことを言っているように思われるかもしれないけれども、読むということは能動的な行為である。読み手を読む気にさせるということがまず大前提にあるわけで、あまりに当たり前すぎて思考が素通りしてしまうような文章は、それはそれで読みやすさを感じなかったりする。たとえ読みやすくはあっても。
 そういうわけで、それなりに読みやすい、読む気にさせる文章を書くためには、日頃から十分にいろんな事を考えておかなきゃならない。考えながらではダメなのだ。考えて書けば、そりゃあ考えたことについては内容を詰められるけども、文章の醍醐味は心地よい連想と飛躍にあり、それが自然にやれるためには、たくさんのことを考えて、その結果をいつでも読み出せるよう頭になじませておく必要がある。だから良い文章を読むと、読みやすさと同時にその筆者の見識に悔しさを感じるものだ。頭が良いなあとか、いろんな事を考えているのだなあとか。まあ、そういう筆者はたいていが年配の方で、僕だってこのくらいの年になればとか思ってしまいがちなのだけど、当たり前に同年代にもすごい人はいるし、僕も負けてられないなあってなる。引き出しはたくさんあったほうが良い。