Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0527

 どうしようもなくむしゃくしゃして、でもモノや人に当たるのも気が引けて、仕方がないから部屋の片隅に置いてある古いピアノの鍵盤に憤りをぶつけてみた、という感じの音楽が好きです。

 結局応用数学XCを寝過ごして昼から大学へ。教科書が手元にあると別に講義行かなくても自分で勉強すれば、という考えを起こしてしまって良くないですね。まあ計算論に対してはけっこう強い興味を抱いているので、ついていけなくなる心配はしていません。というかこれにかまけてしまって他が疎かになるのが良くない。今日は並行β変換のとこのいくつかの証明で行き詰まってしまって、それをひたすら考えていたら頭が変になってしまい、以降全く物を考えられませんでした。(哲学概論と演習がそれでほとんど頭に入らなかった) こうなることは時々あって、特に好きなことを根を詰めて考えている時にそうなることが多いのですが、理由はよくわかりません。僕は余り多くのことを同時に考えられないから、それで頭がパンクしているのかもしれないし、単に分からなくて悔しい気持ちが暴走しているのかもしれない。いずれにせよ自分の頭が自分の制御下になくなってしまうのであまり好ましい状況ではないです。それっぽい状況になる前に歩くなり何なりして頭を覚まさなくては。

 帰り道に黒猫がいたのでじっと見つめていると僕のそばにやってきて、ちょっと一緒に歩きました。一緒に歩いた、というかそのねこが近づいて離れてを繰り返してきただけなんですけど、とてもかわいかった。今日は良い日だ。

 友人から演奏会のプログラムに載っける文章について相談を受けて、適当に心地くなるよう文の並び替えをするなどしました。誇張気味の宣伝的文体を自分が案外扱えることに少しびっくりしたり。

 夜になるとようやく頭が落ち着いてきて、文章を書いたり絵を描いたりして過ごしました。最近は、それまでそうしてきたことの枠組みから意図して離れてみるということをやっています。そうしてみても自分はまだ戦えそうだ、ということが心強いです。なんでも出来るようになりたいのだ僕は。

 生きるということは結局、僕のパターン認識の能力と世界との殴り合いなのだ。見出し続ける限り生き残ることができ、敵は見出れるそれである。僕の拳は空を突き、空はそれに応えて何かを形作る。それは存外、虚しいものではない。