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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

決定論と自由意志の話

 未来があらかじめ決定していて、自分がどんな選択をしようとそれは何かしらの意味ですでに確定した事項であり、故に自分は運命の操り人形、自由を持たない存在なのではないか、というような不安を抱える人間は案外多いらしい。実際僕も中高生の頃は決定論と自由意志の間で揺れた記憶がある。自分が何かを意志するとは一体全体どういうことなのだろう、どういった仕方でそれは許されているのだろうかと考えあぐねたものだ。そのときから僕は、このように考えるほかないよねという形の安定というか境界条件を求めてきたのだけれど、それがうまくいっているのかは今のところわからない。おおかたの問題は言語の問題に収斂してしまう気がして、しかし未だに何か決定的な真理を探しているところもある。

 ひとえに自由といっても、その意味するところは様々でありうる。まあ一般的には、完全には拘束されていない、ということだろう。その点で決定論と自由意志は対立しているように見える。何せ決定論は自然法則による世界の完全な拘束を言っているから。今回はその辺についてちょっと考えてみたいと思う。
 さて、そのためにはまず世界が決定しているということの意味を定めておくべきだろう。とはいえ僕はあんまり厳密には考えていない。超越者がいてそいつから見た世界の決定性としても良いし、あるいはポパーの言うような計算論的決定論の概念を借りてきても良いかもしれない。要は世界の外部から主張される決定性と、世界の内部で定義される決定性は別であるということなのだけど、その辺はあんまり厳密には考えない。というより僕自身がよくわかっていない。僕は場合分けは苦手だし、この話の大筋には関係しないよう思われるから、ある時点の世界から次の瞬間の世界が一意に定まる、ということにでもしておく。
 次に自由意志の意味について考えなくちゃならない。さっき書いたように、自由というものを拘束されていないということと定義すると、普通に両者は矛盾する。お話はここでおしまいで、世界が決定的であれば自由意志はあり得ない。しかしそれじゃあ何の解決にもならないので、この自由についてはもうちょっと議論をする必要がある。
 上で述べた自由はサイコロの出目は自由であるというときの自由だ。このときもちろんサイコロには自由意志があるということは可能である。しかし僕らが一般に自由を議論するときには何らかの主体を仮定している。サイコロはただの物質塊に見えるのに対し、人間は何かしら主体とか意識とか持っていて、自由な選択とかしちゃっているように思えてくる。この主体とか意識とかいうやつはくせ者だ。いくら考えても打ち倒すすべが見つからない。しかし、僕らの自由とサイコロの自由がどう違うのか、あるいはどう同じなのか考えてみることは重要そうだ。だから、とりあえずは迂回して、サイコロと人間の違いについて考えてみることにする。さて、サイコロと人間、一見かけ離れた二つのように思われるのだけれども、しかしここで、サイコロと人間をただの物質の塊であるという風にみると、両者の間にそれほど大きな隔たりはないのではないか、となる。人間には知性があるだとか、自分が何者であるかを知っているだとか言いたくなるが、結局は外部や内部の刺激に機械的に反応しているだけだ。ある物質的構造が考えるだとか知っているという状態を表現しているだけで、そんなことはコンピュータやサイコロにだって当てはまるだろう。自己言及的な構造がどっかの地平ですごいことをやっているかもしれないという想像は勝手だけども今はただ機械としてとらえた場合の人体について言っているのだ。たとえ人間の方がより秩序立っているように思えても、そんな秩序は人間の都合なので特に重要ではない。
 そうするとやっぱり、「私」というものの構造が大事なんじゃないかなあということになってくる。先ほど書いたようにこれを扱うには一筋縄では行かないが、多分ここで本質的なのは、もし仮にそれらの物質的挙動が決定的であっても、サイコロはサイコロだし人間は人間でありそうだ、ということだ。決定論的な世界であっても、人間は自分の自由を主張するだろう。もちろん自由のもとみたいな何かがあってそれが入らないと人間は人間として動かないという想像も可能だけど、科学の発展は生命を物質系として理解しつつあるし、そもそも当の僕が自由を主張している。だから、人間が自分の意志を主張するということが決定的な世界でも起こるだろうとの仮定して良いように思う。
 こうしてみると、世界が決定的であることと、自分が自由であることとの間にはそんなに関係がないように思えてくる。たとえこの世界の未来が決まっていたとしても、実際的には僕は自由な選択をしているし、未来を知ることはできていない。あらかじめ決まっていようとそうでなかろうと、僕の脳みそは機械的に反応して物事を考え、行動を決定している。それは揺るがない。そして脳に計算される僕はそのことを抽象的なレベルで知っている。そのプロセスを自由意志と呼ぶ限り、僕は自由なのだ。言うなれば、世界の決定性と僕の自由とは違うレイヤーに立脚していて、互いに交わったりしないのである。あるいは、そう考えるのが最も建設的なんじゃないかなと僕は思っている。
 
 結局、あんまりうまく自分の考えていることを書くことはできなかった。うまく考えることもできなかった。例えば実際「未来が決定している」という文の意味なんかはそもそも明らかでないし、それについて書こうという気力もなかった。哲学することに常について回る問題だけどもここに書いたことはすべて嘘っぱちであるということがいつだって可能だ。毎回書けないことがあり、それはあることを書いたことに依っている。引き出しを押し込むと他の引き出しが飛び出してくる箪笥みたいに、何かを明らかにすると等量の何かが不鮮明になる。僕は僕がでたらめを書いていることを知っている。言葉の定義は常に宙に浮いていて、分析的真理以外の何ものをも明らかにしたりはしない。しかしそれでも、何か考えてやりたいという抗いがたい気持ちがわいてきて、こうしてキーボードを叩いている。
 もし仮に何らかの意味で未来が決まっていてそれ以外の結末があり得ないとしても、その決定された未来における僕の選択は僕の自由意志の何らかの意味における結末なのだということ。僕はそんなお話を信仰して生きている。