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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

言葉の話

 「論理的形式を表現しうるためには、われわれは、命題を携えて論理の外に、すなわち世界の外に出ることが出来なければならなぬ」(『論文』4.12)これこそ、私がウィトゲンシュタインともっとも意見が一致した磁気にもやはり納得がいかなかった唯一の点なのである。ウィトゲンシュタインの『論文』のために書いた序文の中で私は、どの与えられた言語においても、その言語が表現し得ない事物がある、としても、そういう事物について語りうるところのより高次の言語を構成することは、常に可能である、という考えを述べた。もちろんその新たな言語の中にも、それの語りえぬ事物がやはり存在するであろうが、それは次の言語において語りうるのであり、かくして無限に進むのである。この考えは当時は新しかったが、今では論理学において当然のこととして一般に認められるようになっている。この考えはウィトゲンシュタイン神秘主義を片付けてしまうものであり、またゲーデルの提出したもっとも新しい難問をも片付けるものだ、と私は考えている。[ラッセル 1969,99.143-144]

 論理学において当然になったというのは、タルスキの仕事によってであろう。しかし、ゲーデルはまさにこの階層構造が、不完全性定理の真の理由であると述べているのである。(ゲーデルと20世紀の論理学③)

 心のことだとか神のことだとか形而上のあらゆることについて考えている時に、あるいはそれを表現しようとした時に、いつも問題になってくるのが、そこで用いられた言葉や概念が何を指しているのか明確にすることに関する逆説です。例えば神の存在証明について。ここで例えば神様は今僕が使っているラップトップのことだとすれば、明らかに神は存在します。もちろん普通一般に言ってノートパソコンは神様ではないのでアレですが、こういうふうに、神の何たるかを言葉で表現し、さらにそれらの言葉の定義も明確に定まっているとき、神の存在証明は機械的に行えるだろう、と思います。ここでの神の存在は、分析的真理です。
 さてここには幾つか(ある意味では唯一の)問題があります。まずは定義の内容の問題。例として「この私」の概念を挙げますが、これについていかなる定義をしたところで、僕はそれに満足しないだろうという確信があるのです。なにせ僕にとって「この私」の指すものは明確にあるのだから。しかし、僕の言う「この私」の指示するものは、僕以外の誰にも見えない。きっと明日の自分や昨日の自分にも理解されないでしょう。僕にとっては林檎を指差すのと同じくらい簡単な話なのに、他の人たちはそこには何もないとか、それは蜜柑だとか、あるいは球状の何かだとか言う。その内には僕から見て正しいものもあるとは思いますが、それはその言葉が偶然僕から見ても正しい意味を持っていた以上のことではありません。「この私」について僕の認識する条件や性質は、全て僕の中で閉じてしまっていて、一般的な言明になりえないのです。「この私」の「この私」に対するユニークさ、「この私」の意味するところを「この私」抜きにして語れないことが、「この私」の性質を言語に落とし込み記号的な思考の対象とすることを拒んでいます。そして同様のことはあらゆる形而上学的な概念、何らかのモデル的な対応物を持たない、持つことを許されていない概念に当てはまるだろうと思います。
 次に、言葉そのものの問題。宇宙人に日本語を教える場面を考えてみます。僕が机の上にある林檎を指さして「林檎」といった時に、それを見ていた宇宙人は運良く「僕が何かを指示してその名前を述べている」と捉えることが出来たとしましょう。もちろんそれに失敗することだってありえるわけですが、たまたま彼はそう解釈したとします。そうすると、彼は林檎を「林檎」と対応付けることが出来た事になるのか。別にそんなことはなくて、例えば林檎と机を合わせて「林檎」と理解するかもしれません。例を尽くせば、そんな間違いは防げる可能性もありますが、そもそも先程の「僕が何かを指示してその名前を述べている」という部分についても同様の構図は成り立つわけで、結局のところ何かしらの心的な合一に辿り着くことは不可能です。おそらく「他人の痛み」を理解できないことに端を発する問題でしょう。先ほどの定義の内容の問題も、究極的にはここに含まれている。ですから言語的な言明というのは、それとの心的イメージの対応というよりも、言明それ自体が常にそうなっている、規則に従っている、という点で閉じている、ように思うのです。言葉の意味を定義するということは、その言語体系との関わりを明らかにすることですが、しかし、その言語とか論理それ自体に対する言及は、その言語の中では成立しない。Aの意味を定義するためにBとCが必要となり、さらにそれらを定義づけるためにD,E,F,Gが必要で、という風に、どこかで循環的な構造が生まれる、語りえない事物が存在してしまうわけです。すると、ある言葉が何を指しているいるのかを明らかにするためには、メタ言語による言及が必要となってくる。しかしこれもまた、どこかしらで破綻していそうな雰囲気がある。
 規則は、それに従う事を強制できません。ルールブックにはルールを守れと書いていないし、AとBからCを導く規則Pを置いたとき、AとBとPからCを導く規則P'が、さらにはP''、P'''…が必要になる。そうしてみて、人間の思考というものは、ある規則や定義を信仰した時に、一体なにが導けるか、ということに尽きるのではないか、と思います。その前提に従う意志の内側において、語りうることは明晰に語られる。その点で僕らは言語を超えているのではないかと、なんとなく考えたのでした。