Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0605

 精神医学の講義で、精神疾患を抱えている人の就労支援について教わったのですが、その質問の時間にとある学生が、といっても結構年のいった方で経営もしてる人らしいんですけど、雇用者側から見るとそういうのは迷惑だというような事を言っていて、ちょっともにょもにょした気持ちになりました。もちろん言いたいことは分かるんですけど。んー、なんと書けばよいのだろう、精神病患者と社会的なダメさはまた別で、多分その人なんかは後者を念頭に置いて考えているんですけども、それらが混同されているのが気に食わない、というか。例えば定時出社がどうしても出来なくったって圧倒的に優秀だったら雇うところは雇うだろう、と思うわけです。逆に、企業に対して障害者の雇用が義務付けられているということは、実際的には仕事のできない人に給料を払えということと大きく重なってしまう。それでその人は精神疾患の人は迷惑だ、と言ったのだろうということは僕にも理解できます。理解はできるし、経営者としては良い判断なんだろうとも思うのですが、その、内容としては違うものを大部分がそうであるからという理由でまとめてしまっている、その違いに気付いていなさそうな感じに、強い違和感を感じました。スティグマというのはほんとうに恐ろしい。
 ところで、結局、こういう話は、精神疾患だとか障害だとかを超えて、僕みたいな無能がどうやって幸福になるか、というところに一般化出来るのではないかなと思います。もちろん普通にやってもそううまくはいかないので、そこで家族だったり友人だったりといった、人間的繋がりが大事になってくるのだろうけども、同時に、社会制度的なアプローチとしては、例えば当の精神医学の講義がそうであるように、これがだれにでも起こりうる不幸であることを周知して、人間一般に対し将来の安全を担保するものとして、福祉というか社会を定義づけるということが考えられるのではないかな、みたいな事を考えます。そういう意味で、社会を目の敵にしていた昔の僕は影を潜めていて、最適な社会を営めていない人類一般に物申したい気持ちになっている。まあ、集団はその内部と外部で最適な戦略が違うし、複雑な入れ子になってもいるから、僕が頭の片隅で考えているような理想論がうまくゆくはずもないのだけど、もうちょっとうまくやれるようなってくれるとありがたいな、と思います。人が未来を恐れるほど、僕にとっては生きやすくなる気がする。