Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0609

 今日はそこそこ良い日でした。

 保健センタで適当に話をして薬をもらい(話の内容がもはや哲学的な方面に移っていて、こんなの精神科で話すことじゃないよなと思うのですが、しかし睡眠導入剤を貰う関係で通う必要はある)、キャンパス内の喫茶店で昨日分からなかった問題を考えていたら、案外すんなり解決することが出来ました。その仮定で関数を定義するということについていろいろ考えてなんとなく理解したことなのですが、再帰だの関数合成だのの定義は、どちらかと言うと計算についてのメタな言及なのですね。
https://twitter.com/Raprto/status/475864323017801728:twitter
実際、原始再帰や関数合成に関しては、関数の一般的な性質が書かれているに過ぎず、一般的であるということは実地の計算過程とは少し離れているのです。結局は、零関数・後者関数・射影関数の組み合わせで原始再帰関数が定義されることを明示しているだけなのだ。計算を構成することと、計算について語ることとの間のギャップを感じます。ここをどういう風に埋めるかが、理解への鍵なのだろうな。
 もちろんここに書いたことが後になってまったくの間違いだったとなる可能性もあるけども。

図書館の本を整理せねばならぬと想像して欲しい。始めには本は床の上にごちゃごちゃに散らばっている。それらを分類して、置き場所をきめるのには多くのやり方があるだろう。その一つは、一冊づつ拾ってその本を置こうとする場所に置くことであろう。別なやり方として、若干の本を選びとってただその小グループの中だけでの配列順を示す目的で棚に一列に並べる、というのがあるかもしれない。整理が進行した段階で、この一列がそっくりそのままで違う場所に移されることになった、とする。しかし、そのことでこれらの本を棚にひとまとめにしたことが最終結果に何の役割も果たさなかったというのは誤りである。事実この場合、ひとまとめになる本を一緒にしたことはひとつのはっきりした成果であることはすこぶる明白である。そのままの全体が場所変えされたにせよである。哲学の偉大な成果の或るものは、一緒になると思いこまれた本を引きだして別々の棚に置くのに較べる以外はない。それらの本は今後は並ぶことはないということをのぞけば、本の置き場所についての何ら最終的な成果はない。この仕事の難しさを知らない傍観者はこういう場合何らの成果もないと思いがちである。----- 哲学で難しいのは自分で知っていること以外は何も言わないことである。例えば、二冊の本を正しい順に並べたところで、それが最終的な場所に置いたわけではないことを承知する難しさである。

 さくらVPSの申し込みが終了しました。一応の設定が終わって自由に動かせる段階になっています。web系の技術を少し知っておきたいので、ちまちま何か作りながら理解してゆこうと思います。なんか面白いもの作って公開したいよね。

 夕方からバイト。今日はやたら案件が多くって、大分遅くまで長引きました。午前中の調子の良さが嘘みたいに頭が回らなかったし。