Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0702

 大学に行ってゼミをサボって試験勉強。総合図書館の4階はなかなか居心地が良いです。階段を登るのがちょっと面倒くさいけども。

 いくら教科書を読んで勉強しても、今まで考えたことのあることしか理解できていない気がします。知っていることに頷いて、知らないところを読み飛ばしている。時間ばかり無駄にして、なんにも頭に残っていない。僕が何かを学ぶためには、前提となる知識と動機を仕入れた上で、自分一人で体系をまるごと組み立てる努力をする必要があるのではないかな、と思わざるを得ません。天才ではない僕に、そんなことをする暇はない。どうしたものか。やはり、語彙の習得の遅さがネックになっている、という感覚はあるので、効率よく用語を覚える方法を考える必要があります。ノートの1ページを埋めてしまうくらい図式を書き殴れば、僕でも言葉の意味を把握できることはわかってきたのですけど、知らない語彙が出てくる度にそんなことをしているのは非効率的です。もちろん、僕にとってそれがもっとも効率のよいやり方だという可能性もあるのだけど、せめてもう少し違う方策を練る意味はある。知らない言葉でもためらわずに使ってみるというところに鍵があるのではないか、という予感はしている。
 昔のこと、多分僕が4、5歳位の頃です。母方の祖父母の家に、まだ結婚する前の叔母が住んでいました。その叔母が、ドアを開けようとしてドアノブを掴み「かたい」と言ったのです。僕にとって「かたい」という言葉は、物体が硬いという意味でのみ使われる言葉で、ノブが回しにくいという意味でも使えるということを知りませんでした。物体の形が変え難いという意味を拡張すれば十分そういう意味で使えることが今では分かるのですが、昔の僕にとっては、どういう理屈があれば「かたい」という語をドアノブのまわしにくさに使えるのか、まったく分からなかったのです。それで、その用法にものすごい違和感を覚えたことを記憶しています。今でも思い出せるような気持ち悪さです。僕の言葉は、この程度に融通が効かない。ある言葉に対する既存の知識がまず優先されてしまう。数学のように新たな用語がばんばんと定義されてゆく学問では、これが顕著に現れます。特に複合語などが鬼門です。こういうのは、自閉症スペクトラムにありがちな現象なのかしら。