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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0709

考えたこと

 保健センタ。レポートの書き方とか答案の書き方とか、未だによくわからないんですよね、という話をしました。何を求められているのか理解できないというか、よく理解できていないことについて素人の僕が何か言ったところで無意味な気がして、やる気が出ないのです。自分がわかっていることを伝えれば良いのだと聞きますが、なにせ自分はわかっていないのだから、伝えようがない。みんなはわかった上で書いているのかしら。そうだとしたら、彼らは凄まじく頭の良い人達だということになる。なにせ、あれだけ沢山の分野のことをよく理解しているということだから。それから、最近眠る方法がわかってきたのです、という話も。目を瞑って、瞼の裏に浮かぶ赤紫の模様の変化をじーっと見つめていると、いつの間にか眠っているのです。でもそうやって眠った日は決まって沢山の夢を見て、しかも寝起きに頭が疲れている感じがあります。何が起こっているのだろう。とまあ、こんなとりとめのない話をして、また二週間分のロゼレムをもらいました。上記の方法を発見したのであまり飲まなくなりましたが、崩れてしまった生活リズムを立て直すには便利な薬剤なので重宝しています。
 保健センタのロビーで感じたことなのですが、僕は病院の雰囲気がそこそこ好きです。ものすごく静かってわけじゃないんだけど、誰もがちょっと静かにしておかねばと感じていることによってそうなっているような、ひそひそとした静けさに、落ち着きを感じます。うっうー。

 駒場に行って、計算数学。前回の続きでjavascriptを弄るつもりだったのですが、ふと数独を作らせる事を思いついてrubyで書きました。一応動きましたが、最悪計算量が無限大なのでたまに止まらないことがあります。ちゃんと再帰を使って書き直したいところ。

 自分の昔の文章を読み直して思ったこと。僕は適切な表現が見当たらなかった時に、それっぽい言葉に言いたいことを背負わせて放り投げてしまうところがあります。自分が考えたことのはずなのに、自分でも理解できないことがある。もう少し慎重に言葉を使うべきです。文章表現以前の問題として、文章は正確に内容を伝える必要があります。(「文章の書き方」でもその重要性が再三説かれていた) ただ、よく考えていることの内容からして、どうしても正確に伝えにくい部分があるのも確かです。そういう時は、自分の心のなかに仕舞っておいて明らかな説明が見つかるまでそっとしておくのが良いのか、正確さを犠牲にしてでも文章にしてみるのが良いのか、悩みどころ。まあ自分で読んでも分からない思想を、誰かが読んで理解できるということはないだろうから、わざわざかっこつけて文章にする必要もないかな、とは思います。もっとメモみたいに軽く考えを書くことをやってゆきたいよね。

 というわけで自由意志の話。自由意志と世界の決定性が議論されるときに、未来が決まっていないことが自由であることの必要条件であるのか、それとも必要十分条件なのかはあまり明確に考えられていないよな、というようなことを考えました。後者の考えは世界のすべてのものに自由意志を与えてしまうことになるから、僕としてはそれは意志としての側面を蔑ろにしすぎている感があってあまり好きではないです。しかし前者については、これまで考えたことがなかった。つまり、自由意志が関与する限りにおいて、世界は非決定的だ、というような考え方です。個人的にはこの考えにも疑いをもってはいるのですが(そもそも自由はどのように世界と相互作用するのだろう)、一度考えてみる必要性も感じています。

 何か答えを知ることが出来る、とは思っていません。しかし、哲学することが自分の内面を豊かにするということもまたあると思っています。哲学は僕の遊びです。それは必然性がないゆえに僕を僕にしてくれるものです。

 自分の考えは、少し現実に引きずられすぎていたな、ということを反省する機会に得ました。考え想像することはもっと自由なものであるということを忘れていたのです。頭のなかでは、魔法を使うこともできるし、違う星にゆくことも出来る。白い壁は別に紫でもいいし、実際にはありえない光景を描くことが出来る。そうやって、思考にはめられた正しさの枷を意識的に取っ払ってしまうことが、芸術をする気持ちなのではないか。僕が書きたいことや絵にしたいこと、音にしたいことをうまく表現できなかったのは、表現の形に整合性を求めすぎていたからなのではないか。情動と創作物の間には、何か"正しい"対応が存在すると思い込んでいたのではないか。そういうことを考えていました。もっと開放されること。しかし、自由はエネルギぃをくうのだ。