Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0905

 久しぶりに青色本を読み返して考えたこと。ウィトゲンシュタインの言う言語ゲームは、言語の使用を単純な規則に還元する観点である、と思う。規則というのはつまり振る舞いを規定するものであり、振る舞いという言葉もそういうものである。そうしてみると、昔僕が冗談で言った「本はそれ自身の内容を理解しているか」という命題には、例えば「その本が誰かに読まれうるという意味でそれは自身を理解している」などと返答を返すことが出来るのではないか、ということに思い当たった。これはもちろん、ある概念を理解したものの振る舞い(この場合は他者にそれを教える)を人でないものに拡張した結果である。別にそれがどうしたんだって感じだけれども、ちょっとした冗談のネタとして。

 抽象的な言葉というのはつまり、その言葉の意味が他の言葉によって定義されているという階層の深く連なったものではないか、と思いました。それらは順に読み下され、身体的な言葉に行き着いて止まる。身体的な言葉というのは、心のなかに何らかの対応物を持っている言葉、程度の意味です。そしてそれはもちろん、沢山の言葉と戯れることで増えてゆきます。
 僕が特定の本を読めないのは、その身体的な言葉に欠けているからだろうと思います。その分、また別の分野では豊かな語彙を持っている。どこかの本で読んだのですけれど、サヴァンの人が特定の分野の記憶に優れているのは、その分野について膨大な記憶を持っていて、その網の目の中にうまく位置づけるからだ、とありました(タメットの本だったかな?)。逆に言えば、興味のないもの(それはつまり、"興味を持てないもの"です)についての記憶力はとても低い。そしてそういう偏りを自分の力で傾けてしまうのはとても難しいのだろうと思います。ある分野で極端に能力の高い人達が、他の分野で極端に劣っていたりするのは、そういうことなのではないか。自分が得意なことに対して発揮するパフォーマンスを基準にしてしまうということ。そしてそこにのめり込むこと。
 早急に語彙を獲得せねばなりません。しかし、ここ数ヶ月試みた感じでは、僕にはまだまともな方法で、つまり根気よく覚えこんでゆくことで学習を進める能力がない。そうなるとやはり、速く多く沢山のものに触れるしかないのではないか、と思います。意味は分からなくても一通り最後まで目を通すこと。それを何度も繰り返すこと。

 夕方からバイト。久しぶりにカタラン数などというものに触れました。それから、生まれて初めてインピーダンスについて理解しました。僕は馬鹿だったので交流をほとんど勉強せずに大学受験しているのです(化学はもっとひどかった)。なんか文字がたくさんあって面倒そうだなあという印象しかなかったのですけど、蓋を開けてみればつまらない概念でした。なんか僕は、こういうやり方でいつも損をしている気がする。

 ふと思い出したこと。小さい頃はペーパークラフトをつくるのが好きでした。でも幼い僕は今以上に飽きっぽくて、早く完成させたがり、作品は毎回微妙な出来栄えだったのを覚えています。けれども時々、全行程の中から一部分だけを抜き出して、そこだけを出来るだけ丁寧にやってみる事がありました。そうすると当たり前に良い物が出来ます。僕はそれに満足して、後はほうっておくのでした。
 僕は、自分が一定時間内に出来ることがわかっているもの、全体の見通しが立っているものに対しては、丁寧さを発揮することが出来るのだと思います。つまり、ここまでやればよいと決まっていることが一種の安定剤になっている。そういう性質をもう少し生活の中で活かせないだろうか。