Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

文章

 言葉を綴るときの速度の重要性は大きいように思います。特に技術的なことを考えていなくても、ゆっくりと書くだけで、少し読み心地の良い文章になる。心の中で自然に反応が進んで、さらさらと言葉が流れ落ちてくる感じです。思考と表現が手を取り合って踊っている感覚。けれども時には、考える速さに言葉が追いぬかれてしまう。沢山の表現したいことや書き残しておきたいことが湧いてきて、言葉を後ろから激しく押し出すのです。私達は忘れ去られたくない、はやく形にしてくれ、というように。そんな彼らの圧力にどれだけ応えるかどうか。それはすなわち僕がどうしたいかということになるのでしょう。良い文章が書きたい?それとも多くの思考を書き記しておきたい?できれば、どちらも両立していたい。こういうときの僕は、ひたすら貪欲だと思う。べつに嫌ではない。

 この前数学書を読んで思いついたことをまだここに書いていなかった気がするので残しておきます。僕は以前、本に書かれている証明のトリッキーさが嫌いだとか言っていたと思うのだけれど、よく考えなおしてみれば、自分に無限の検証能力があるわけではないことなど自明なのであって、だから数学書の証明を読む際はどうしてこの書き方でなければならなかったのかという問をつねに念頭においておくべきだということに気付きました。それだけ。

 とかとか、それっぽく考えて書いてみたんだけれども、微妙に絶妙に的を外している感が拭えない。それはたぶん、自分の中で読みやすい文章の指標が固まってないことによるのでしょう。趣味趣向を言ってしまえば、ちょっと着崩した感じのですます調(こんな感じ)が好きなんだけれども、それが理想かというと別にそうでもなくて。自分の好きな食材を片っ端から鍋に放り込んで煮てみたところで美味しくなることなんてあり得ないんだし、そろそろ諦めて料理をつくるようすべきなのかもなあ、とか。いやでもやっぱり全部一纏めにして欲しい。僕の好物を全部使ってできる美味しい料理のレシピがあると良い。