Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

自己分析みたいなもの

 ひたすら乱文なのはご容赦ください。

 自分の好きなものについて考えなきゃならない。考えるというよりは、掘り起こすという方が適当か。まあ文章上の表現はどうでもいい。とにかく、自分の根本的欲求に問いかける必要がある。本当か。本当にそんなことをせねばならないのか。何者でもない状態についに耐えられなくなったのか。透明でありたいという気持ちはどうした。ブログのプロフィールにも書いたじゃないか、透明な人間になりたいですと。そしてそれはある程度成功している。すなわち、いかなる価値観にも骨の髄までは浸からないという意味では。しかしけれども、僕は今、自分では如何ともし難い空虚さを感じている。何者でもない自分を持て余している。人生に退屈を感じている。退屈。それが問題なのか。つまり、何かに熱中している間に人生が終わってしまえば良いと思っているのか。いや、それは多分嘘だろう。なぜなら、そうやって乗り切った空白は、思い返した時により密度の高い空白(変な言い回しだ)となって返ってくるのだから。思い返さなければ良いとする向きもあるけれど、それに期待するのは現実的じゃない。
 自分との対話というのが僕にはうまく出来ないと感じる。言葉を使っていると思考力が極端に下がるのだ。言葉を使わない時、ぼーっと物事を眺めている時、あるいは、言葉を使ってはいてもそれが視覚的な注意に付随する形である場合は、頭のなかに色とりどりのイメージが展開されていて、視覚や聴覚からの入力に鋭敏に反応して姿形を変える。そんなもやもやのぐるぐるを思考と読んで良いかどうかはわからないけれども、僕の動機はそちら側に属している。けれども、言葉を放り込んだ瞬間に、もやもやは磁力線に支配された砂鉄みたいに整列して、それ以外の形をとれなくなってしまう。もやもやの中で生じた断片的な言葉たちの思い出が、その主役になる。
 何のことを考えていたのか忘れてしまった。そうだ、好きなものの話だった。生きてゆくために、何を自分の中心に据えるかという話。なんでそんなことをしようと思ったのだろう。ああそうだ、そのほうが生きてゆきやすいのではないかという漠然とした予想があるからだ。でもその予想の確からしさは未知数だ。なにせ、好きなこととそうでないこととが人生に関わるようになったのは、最近の話なのだから。昔は、やらなきゃならないことがあった。そしてそれで十分だった。お金をかけてもらっているのに、高校に落ちたら申し訳ないとか、ちゃんとしてないと叱られるからとか。ちゃんとするのは難しかったけれど、ちゃんとしないことのデメリットは、僕にそれなりの成果を出させるためには十分だった。嫌なことを回避するために、僕の全力は必要なかったと思う。でも嫌なことだったから、全力で向き合うこともまたできなかったとも思う。中学の時は、週に何回か隣の市の塾まで通っていたのだった。代わり映えのない毎日。塾に向かう電車をホームで待ちながら、僕は何を考えていたっけな。電車の中で読み返すつもりの本について考えていたかもしれない。あるいは、ちょっと独特なホームの匂い。席はあるだろうかとか、車内で宿題終わらせなきゃとか、そういう雑多なことだった気もする。そういう生活の平坦さについて考えることは、不思議となかった。どういう動機であの頃は生きていたのだっけ。よく思い出せない。怒られるのが嫌だったから。それとも、がんばりに対して十分以上の成果が返ってきていたから。友人といろんな議論をするのが楽しかったから。そのどれでもない気がするし、すべてが動機であった気もする。もう少し思い出してみる必要があるかもしれない。
 中学の時は、ことさら頭が良くなりたいという思いはなかったように記憶している。学力と頭の良さは別というか、勉強ができるのは割と当然のことであって、あんまり自分の個性だとは思っていなかった気がする。というよりも、お勉強ができることがアイデンティティ足り得たのは、地元の普通の中学での話であって、進学塾の中ではそうでもなかった。みんな勉強できたし。その塾の中でも、僕はそれなりに勉強ができたほうだと思うけれども、そちらでの教室内順位にあんまり頓着していなかったのは少し面白い事実かもしれない。いや、割と気にしてはいたのかな。ううん、気にしてはいても、心の中心を占めることはなかった、と思う。塾の中では、問題を解くことそれ自体を結構楽しんでいたのではないかな。もう少し言えば、さっさと解き終わって周りが解いているのを眺めるのが好きだったかもしれない。そうしてみると、昔の僕にとってお勉強はゲームであって、他者がいてはじめて成立する課題だったのかもしれない、という予想が立つが、試験の順位に関してはそれほど負けるのが嫌ではなく、努力の度合いと言った学習態度から鑑みてこいつには勝てないだろうなということを平然と受け止めていた。とすると、僕にとっての勉強のゲーム性は速さにあったのではないか、となる。このことはこの前知能検査を受けた時に指摘された、思考が早いという特性とも合致しているよう思う。処理が早いこと。
 少し休憩、言葉を使いすぎて頭が回らなくなってしまった。目を閉じて、高校のことを思い出そう。灘高校においての三年間。あそこで僕は思いっきり落ちこぼれた。宿題はおろか、授業も聞いていなかった。自分がそうなってしまった要因を、進学校に入って周りに対する優位性が失われたとか、他に楽しいことが多すぎたとか、両親の眼から逃れたということがあるかも知れないが、先ほどの考えを敷衍すれば、もっとも大きかったのはタイムアタックがなくなったことではないかと思う。これは少し新しい視点で、考慮に値する。
 ねこねこ。ねこは可愛いなあ。うちの近くにはねこの集まるスポットがあって、暇なおばさんたちが時折エサをやっている。彼らはごろりと転がって、人間のネコっかわいがりを利用している。せぼねをぐにゃりとまげてねこねこしている。意味不明。
 僕に共感覚はないから、音に色が見えるなんてことはないけれども、音に対して少し注意をむけると様々なパターンを思い浮かべることが出来る。歯車が回転していたり、花火みたいに光が点滅したり。Windows Media Playerが描くあの妙な模様を展開してみたり、音の高低に合わせてノーツを走らせてみたりする。あるいは、厳かな少女が瞳に大きな力をたたえて軽やかに立っていたりする。僕の中では、楽器をやっていたからか、音の高低に対応するのは、空間的位置の実感であり、身体的な動きである。音楽を聞きながら歩けば、手足の動きが音に呼応する。気を抜くとすぐ変な人になってしまう。
 漠然とした思考の塊。それらは、僕の意識から見て、何らかの意味を持っていそうな何かである。それの意味するところは深遠であるに違いないという根拠のない直観があり、その直観はだいたい、斜め右後ろを目指す脳内の引力として現れる。その意味を解釈しようと手を差し伸べると、それはするりと避けてしまう。そういう時は暫く待つ。すると、差し伸べた手を核にして、代わりの言葉たちが析出してくる。真理偽装真理たち。
 考えが途切れてしまった。文章を書くという行為には、たくさんの非本質的な物事が付随する。もちろんそれらは文章を書くということにおいては本質的な物事ではある。考えを記述し残しておくためのもっと別の方法があればと思う。絵だろうか。しかしアレは、考えというよりも気持ちを込めるためのものだ。しかもなかなかうまくいかない。
 絵を描くこと。僕が絵にしようと試みていることは、常に同一の気持ちであるように思う。ぎゅっと握りしめた拳が、掌を押す感覚。まぶたを強く閉める圧力。肌をぴりぴりさせる空気。そういう、何かよくわからないものすごいものを、一つの画面に押し付ける。目をつぶると、その絵を見たときに受けるであろう印象だけはそこにある。密度の高いエネルギィ。けれども、実際に手を動かして絵にし始めると、とたんに手癖が優位に立ってしまう。技術が、記憶が、書きたい物を侵食する。あるいは、不完全な鋳型に閉じ込めてしまう。そうしていつの間にか、どうでもいいものを書いている。どうでもいいので、さっさと書き上げてやめてしまう。毎回そんなことをしている。
 表現したいものを表現する方法は別に絵でなくても良い。絵と気持ちは親和性が高いように感じるからそうしているのに過ぎない。鍛錬を積めば詩や小説でも同じことがやれるだろう。あるいは、何らかの活動を通じてもそれは発散できるに違いない。僕の中には自分でも捉えきれない未分化な情動があり、それと等価な現実のオブジェクトを生成しようと試みている。その動機はなんだろう。どうして形にせねばならないと感じているのだろう。誰かに見せたいのか。それとも自分が見たいのか。絵を描くことに関して言えば、後者の色合いが強い。線を重ねながら、より自分の心が動く物を選びとってゆく。ただそれは、選択肢の中からもっとも良い物を選んでいるのに過ぎず、完成品からは程遠い。そもそも自分の情動全てを帰すことの出来るようなイメージを生成できるのか疑問である。
 また手が先行してしまっている。落ち着いて落ち着いて。内側の声に耳を澄まして。
 廃墟のイメージ。打ち捨てられた大きな建物の内側の、広い空間。足音が遠慮がちに反響し、静謐さを演出する。暗がりを暗緑色の苔や蔦が覆い隠し、人工の直線を自然の乱雑さに吸収してゆく。高校生の頃は廃墟に憧れていた。別に廃墟を訪れてみたいとは思わなかった。ただ、一つの記号としての廃墟を好んでいた。何かが始まりそうな気がした。何かを代弁してくれそうな気がした。想像の中の廃墟に、ピアノを配置した。黒いワンピースを着た白い肌の女の子が、ぽろんぽろんと鍵盤をかき鳴らしていた。僕はそこにはいない。
 こういうイメージを厨二病の亜種として片付けてしまうことも出来る。すなわち、自分でもその正当性を保証できない、自己の比喩である。彼らが比喩でありうるのは、彼らが比喩であると自分が命じる限りにおいてである。そこでは言葉と意味とが遊離してしまっている。それでも、何かを喩えたいと思う。それ、は、直接見ることも聞くこともできない。
 ここまで読み返してみて、何を言っているのかまったく分からなかった。しかしこれこそ、平常時の自分の心のなかである。こうやって意味のない連想が広がってゆく。自分を見つめるという点においては、試みは成功しているかもわからない。
 もう少し続けてみたい気もするが、ちょっと疲れてしまったし、続きはまたにしよう。こうして回想を続けてゆけば、自分の精神のより深いところ、未踏の部分をも探ることが出来るようなるかもしれない。