Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 講義と講義の間が暇だったので安田講堂横のベンチに座って木の絵を描きました。本当は木の皮の模様に至るまで全て写しとるつもりだったのですけど、集中力がもたず。そのくらいはできたいんだけどなあ。

 最近、普通だったら脳が勝手にフィルタしてしまう細部の情報に、集中力でもって切り込んでゆくのが楽しいです。自分は一体何を見ていたのだろう、と思います。それっぽく抽象化された、風景の対応物を想起するのみで、実際そこにある空間的形状は大部分削ぎ落とされていることに気付くのです。観察力があるという言葉の意味は、こういうふうに自在に認識の精度を上げ下げできるということなのではないか。僕はもっとちゃんとものを見られるようになりたい。

 5限の戦争社会学の講義、予想に反して面白いです。昔の戦争の様子を再現した映画のワンシーンを見せられたのですけど、最初ポカーンとしてしまいました。

 これです。たぶんこの時代の戦争についての知識のない人はだれだってぽかんとすると思います。で、どうしてこういう戦闘になるかというと、隊列を崩せないことに要因があります。この時代、騎兵が最強の駒なので、銃で武装し集団で固まっていないとすぐにやられてしまうらしいのです。それから、この時代にはナショナリズムが存在しないので、兵士が脱走する可能性が高い。それを防ぐためにも、隊列を組んでいる方が都合が良い(脱走兵を斬り殺すための人達がいるようです)。そういうわけでマーチにのって足並みを合わせて突撃してゆくのがもっとも効率が良いというのです。なんというか、ある時代における戦闘の最適化が直観に反するものになっていることに、かなり面白いものを感じました。たぶん(僕にとっては)数理論理学と同種の楽しさです。あ、そうそう、彼らが銃を撃たないのは、一度撃ってしまうとリロードに大きな動きが必要で(マスケット銃は銃口の先から弾を込める必要があります)、それによって隊が壊れる可能性があるかららしいです。十分近づいてから一発だけ撃ち、後は銃剣で斬りかかるんだってさ。しかし隊の先頭は歩きたくないなあ……。