Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

内省することについて

言葉の話。
たぶん五年くらい前のことになるのだけど、次のような実験結果について聞いたことがある。
実験内容について知らせることなく、被験者の脳の感情を司る部位を刺激する。すると被験者は実際にそういう感情的反応を示すのだが、その理由を問われると、理路整然と自分がその感情を抱いた訳を話したという。外科的に生じさせられた感情であるにもかかわらず、だ。
この結果についての解釈はいくつか考えられる。まず、刺激した部位が特定の感情を誘発するような記憶をコードしたものであったとする考え。それから、人の意識や言葉は、自分の脳の状態にその都度適当な説明をでっちあげているに過ぎない、という考え。
正直この実験のことをどこで知ったのか定かに思い出せるわけではないから、実際のところがどうであるかはちょっと自信ないのだけど、しかし後者の考えそのものは考慮に値する視点だと思っている。僕の意識は、僕という現象を正確に表現してはいないかもしれないってこと。
一方でこのことを当たり前と見る向きだってある。百億だか千億だかの脳細胞と、それらの兆のオーダの結びつきを、言語やイメージなんて大雑把なものが説明できるわけがない。だからそもそも言葉というのは自分の内面を探るとかそういうものでは全然なかったと考えるのが妥当だ。そうしてみると、やっぱりコミュニケーションかな、と思う。あそこに餌があるよ、とか。こういうふうに動くと獲物を捉えやすいよ、とか。そして、自分について説明する機能っていうのも、そうした外界を操作する能力を自分に向けてみたに過ぎないんじゃないか、というのが、僕の考えだ。
例えば、あいつは怒っているなって思うのと同じように、自分は怒っているなと「自覚」する。自分の心を覗き込む機能はなんら特別なものではなくて、そこに起こっている一つの事象に、もっともらしい説明モデルを付したものでしかない、という感じ。そして、そうやって自分を説明することと、他人がその説明に納得を示すことの間に契約が発生して、そうして出来たのが社会なんじゃないかな、みたいなことを考えている。うーん、なんと言ったらいいんだろう。僕らの意識が、自分の振る舞いに言い訳をつける。もちろんその振る舞いはそういう理由で起こったわけがない。ただニューロンのいたずらが起こした行為に対して、意識が言葉が、説明をつくる。そして他人は、いや、他人の意識や言葉がそれに対して了解を提示して、二人の関係が保たれる。という具合だろうか。
で、僕がどうしてこういうことを書いているかというと、自分で自分を説明するってことはとても危険だなあと思ったからなのです。別に自分は高頻度でこういうことをしてしまいがちだ、というようなやり方でなら、それは有用なことだ。それは確かめられることだし、行動を変えるための指標になる。でも、もっと曖昧な言葉で自分について語り続けることは、全く意味のない言葉とそれへの了解の繰り返しを作り出して、自分の内側に閉じた領域を作り出してしまう。自分自身を誤認しているのだけれど、自分ではそのとおりだと思っている。そういう状況にすぐ人は落ち込んでしまうのだ。
内省って大事だけどすごく危ないことかもしれないです、ということが言いたい。