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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

文章のこと

 あなたがこれを読んでいるということは、今この文章は読まれているということですね。読まれること、それは文章の本質です。何者にも解釈されていない文字列は、インクの染みや半導体上の電位差の集まりにすぎない。まあインクの染みがインクの染みであるということですら、誰かを抜きにしては(突き詰めればこれは私でなくてはならないはずだけれど)成立しないわけですが、そのことは今は脇においておきましょう。あとでこのお話の内容に関わってくるかもしれないから、あまり遠くには放らないようにして。

 何も考えずにここまで書いてみて、すごくがっかりした気分になってきたので、ひとまずそのがっかり性を考えてみることにした。

 言語野が錆びついてしまったかのようなままならなさが僕の言葉に生じている。ゴツくて物々しくてしかもそんなに動きの良くない関節と、いまにもポキリと折れてしまいそうな細いフレームによって組み上げられた不格好な機械の腕。それが、虚空に向かって指を広げて、何かよくわからないのだけれどきっと素敵であるはずのもの、いや、素敵であることが定義づけられているはずのそれを掴み取ろうとしてガタピシ言っている、そういうイメージが心に浮かぶ。なめらかさなどとは程遠い風景だ。血の通った文章が書きたいと思う。そして、きっと書けるだろう。けれどもそれは、僕の望んだものでは決してない。
 もう何回もこういうことを繰り返している。憧れと漸近・忘却と後退の無限のループ。僕の中には、終着点としての良さというものはない。良いという観念はいつだって方向で、憧れで、盲目的にそちらに進むことはできるものの、ほんとうは何を目指しているのかは僕には知れない。ときどきゴールを追い越してしまって、慌ててUターンするともう自分はどちらからやってきたのか忘れていたりする。いつの間にか僕はブラウン運動みたいにくるくる跳ね回りながら、確率過程として最終目的地からだんだんと離れてゆく。離れていっているような気がする。どのくらい離れているかを測定することすら、できない。そうなってしまうともう仕方がないから、埃をかぶったお気に入りの本を紐解いたり、お気に入りのブログを読み返してみたりして、ああ僕はこういう感じに憧れていたんだっけなということを思い出す。そうしてまた、それの指し示す方向に向かって、てくてくと歩き始める。
 ある意味ではこれは器用さなんだとも思う。手っ取り早く自分で自分を褒めてやるには、褒められるに足ることを成してみせるほかない。その意味で僕は結構優秀で、比較的短時間で自分を満足させるようなアウトプットを捻り出す。実際この文章もそうやって生み出されているところで、僕はそれなりに満足している。まあまあ書けてるんじゃないの、と。
 でも多分、それじゃあダメなのだよな。ぱらりと本をめくって、ふむふむこう書けばいいのかって真似して書いた文章には、永遠性みたいなものが欠けているのだ。きっとこの文も、3週間後くらいに読み返したら下手くそだなあって思うに違いない。僕が今ここで書いている文章を自分で褒めてやれるのは、きちんとお手本にした文章の示す方向を向いて歩いているということを天下り的に知っているからなのであって、それ以上でもそれ以下でもないのである。憧れを介してのみ評価されうる文章は、日にちが経って憧れを失ったニュートラルな自分から見てもなお良いものではないだろう。
 自分にあらゆることが出来るならば、そこから少しずつ範囲を狭めてゆくことによって、自分の気に入る形を浮かび上がらせることも出来るに違いない。僕はそういう風に物事を解決したいと考えがちだ。下から持ち上げてゆくのではなく、圧倒的な力で上から抑えること。なんでもできるようになりたい。
 本心なんてないから、何を書いても嘘になる。嘘だけど。