Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 これは詩です。

 ゼミの発表。プロトコルの作成とサークルの方に時間を取られてしまってドイツ語の訳のほうがダメダメでしたが(睡眠不足でまったく頭が回らなかったこともあります)、まあ一応やることをやったという点で自分を評価したい。そもそも出来るはずのないことが出来る道理などないのだし、言語の勉強はこれから頑張りましょう。頑張るだけの理由を発見できたら、という条件付きでですが。
 ドイツ語がわからないという以前に、カントが何言ってるのかわからないことがちょっと不安でした。彼の説明は、まったく僕を納得させてくれなくて、それでわからんわからんとゴネていたら、先生に君自身の考えが混じっている、という指摘をされたのですが、僕としては、カントが当たり前のように述べていることに正当性を発見できなかったので、それはどこで保証されているのだろうということが知りたかったのです。眠かったからうまく言葉にできなかったけど。で、TAや教授の話を聞いている感じでは、カントがどう考えているかというのを汲み取るのがここでの目的であって、実際それが正しいかどうかというのはこの際それほど重要ではない、ということらしいです。ううん、それじゃああなた方はいったいぜんたい何をしているの、ということに僕としてはなってしまうのだけれど、たぶんこの種の問は致命的に過ぎて、おそらくあらゆる人間の諸活動を破綻させてしまうがゆえに生産性が無い。仕方がないから僕は、振り下ろしどころを失ってしまった拳で、ひとまず自分を殴ることにする。いったい僕は何をしているのでしょうか。

 こういう事態は、言葉はすべて詩なのだ、すべての行為は芸術なのだという僕の信念をますます強固なものにします。ここでいう芸術というのは、人間に了解されてこそ意味を持つという意味です。例えばある哲学的論究は、読者を「納得」させることによって、彼を不断の哲学的苦悩から開放した、そういう意味で芸術であって、正しいかどうかは、どうでもいい。あるいはその論究を拡張することによって、それを面白がる人を面白がらせるというエンターテイメント的な有り様もあるかも知れない。それだって視聴者をある程度に信じさせ、また新たな問題を提起するだけの力を持ってさえいれば、正しいかどうかはどうでもよろしい。今の僕はそんな風にしか物事を見られなくなっていて、だからあんまり何かをする気になれなくなっています。僕の芸術は、僕さえ騙せればそれでいいや、という感じです。
 そもそも正しいってどういうことだよと、これはもう三千那由多回ほど考えた命題です。さきほど書いたとおりこの問もまた詩なのだけれど、ときどき考えておかないとなんとなく自分ののっかっている地面が壊れてしまう感覚があるのでとりあえず口ずさんでおきます。同時に無駄なことを考えるなと思う自分もいます。真理性を統計的なそれに限局せよ、実世界にどの程度それが通用するかでその価値を測れ。答えのある問いを考えろ、予想を立てて確かめよ。人はみなそうして生きているぞ、と。そしてもっと過激な僕もまた存在している。正しくないものなど消えてしまえ、正しくないものを崇めるな、言葉を捨てよ、そういう僕が。こういうことを考えると、やっぱり数学を専攻すべきだったのではないかという気がしてきます。一部の数学は、認識の問題を本質的に回避している稀有な学問だと僕は思います。その正しさは、その規則が定める所によって定められていて、そこには揺らぎがない(無矛盾かどうかはまた別の問題だと思っています)。こういうことを仮定するとこういう結果が出てきますということを堂々とやってそれがきちんとした営みになりうる、そういう世界は素敵だなと思うわけです。多くの数学者はもっと素朴に実在論的な立場を取っていると聞くけれども、僕はそういう邪な気持ちから、数学的な、あるいは形式的な正しさに憧れを抱いている。全くもって数学的才能がないのが残念なところです。そういえばウィトゲンシュタインも、哲学を抱えて数学の山にのぼるのは難しいというようなことを言っていたように思います。彼も僕と似たような理由で論理と数学に興味を持ち、同時に苦手だったんじゃないかと、これは僕の願望です。
 眠すぎて良くわからない文章を書きました。更に馬鹿な物言いを重ねないうちに眠ります。おやすみなさい、よい夢を。