Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 妹の成人記念ということで家族みんなで写真屋さんに写真を撮ってもらいにゆきました。妹は何やら重たそうな着物を着ていて大変そうです。僕はじっとしているのが苦手で写真を取られるのは苦痛でしかなかったのですが、最近は頭のなかをいろんな考え事で埋め尽くしてしまうことによって耐えることができるようなてきました。進歩です。どうして人は記念に写真を撮るということをするのだろう、覚えておけばよいのに、ということを考えていて、思い出すということは創造的な営みなのだ、と思いつきました。薄れる記憶と、変化しない記録の間にて。

 それから、妹の成人祝のお食事会。親戚総出で非常に賑やかでした。ので割とつらかった。いろんな人の話が洪水のように頭に入ってきて疲弊するし、その内容から彼らの心情を推察してひやひやするし。例えば、最近母の弟(つまり僕の叔父です)と結婚した方も来ていたのだけれど、そういう状況にある人にとってこういう会は非常に苦痛だろう(なにせ酔っ払った僕の親戚たちが無遠慮に絡むのだ)とか考えて嫌な気分になるのです。どうしようもない不幸がそこにあると感じる。それから僕は、こういう場で人がしゃべることは完全に嘘っぱちだと思っています。誰もそれが嘘であることに気づいていない嘘です。成人してこれからの抱負だとか、それについてのコメントだとか。きっとみんなそんなたいそうなこと考えてなくて、ただ”場を持たせるために”話をしているのだと思う(こう僕が考えることは、人々がそれらの言葉から意味や感情の動きを引き出していることを否定はしません)。それがコミュニケイションの本質なのだと言われればその通りなのでしょう。だけど僕にはそれがうまく理解できないし、理解できないから失敗しそうで怖い。どうして同じ言葉を繰り返して誰も飽きないのか、内容のない言葉に頷くのか。ただぼんやりと混乱します。人間の言葉はほんとうに動物の鳴き声と大差ないのだ、と思う。だからこそ僕は一人で鳴いていたいと願っている。

 こういうこと考えてしまうのは僕の興味の偏りから生じる疎外感、うまくやれない感覚に苛立っているからなのかもしれないな、とか。