Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0107

 久しぶりの大学だったからか、いつもより講義が長く感じました。長い時間座っているのはたいへん。

 講義と講義の間に暇があったので考えていることを片っ端からコンピュータに打ち込んでみるというのをやってみました。ノートのほうが図とか使えるし良いだろうと今までしてこなかったのですが、こっちはこっちで手書きより圧倒的に早く入力できるので、特に雑念を統合して一つの思考にまとめるような場合にはかなり便利ぽいです。言葉で考えるのが苦手な僕だけれど、打ち込んだ文字をまた眼で見るというフィードバックがうまい具合に作用してべつだん意識することなく好ましい状態を維持できます。書いているうちに落書きに移行してしまわないぶんノートに手書きよりストイックになれる感じがある。Twitterに移行しない精神力が別に必要になってくるけど。

 というわけで以前作って放置していたはてなブログ上で試してみたり。
正規表現と正規言語 - abstract patterns
 本を読みながら書いていたけれど、この感覚では一通り読んで頭に入れてしまってから自分の言葉で書きなおしたほうが良いっぽいですね。より記憶に残りやすくなるし、効率もそちらのほうが多分よい。数式ははてなブログTeXを扱えるのでいいとして、問題は図よね。まあ別に読み返すことが主目的ではないからそこだけ紙に書いてもいいのだけれど、PCを開きつつノートを広げるのは場所をとるので、できれば画面上でやれると良い。Surface欲しい気持ちが高まります。

 数学の極限について少し考えていました。ε-δ論法は無限を迂回することによって極限を扱う技法だけれど、そういう仕方で定義されるいろんなものがうまく整合しているのは少し不思議です。もちろん、有限の範囲で演算が整合しているので極限操作を限りなくすすめたところで整合性が保たれるのは当たり前のようにも思うのですが。それから、今まであんまり意識したことがなかったのですがπやeだって何かしらの無限の操作の果てに定義されているわけで、これらの概念がいろんな定理の中にもっともらしく出てくるのは、これらを定義している手続きが特殊だからなんじゃないのかな、みたいなことを思ったり。あと実数って当たり前に使われているけれども、それを求める手続きがないような数がほとんどのはずで(ほんとにそうかは分からない)、それらの数の扱いってどうなってるんだろう、みたいな。うーん、数学の人に怒られそうなことを書いています。ちゃんと勉強してからもう少し考えてみたい。

 「神は存在するか」と「光速を超えて伝播するものは存在するか」という二つの文の違いについて。学問は我々の言語仕様を制限する方向に進むものである、とか言ってみる。

 人間に知り得ないことの存在を明らかにし神と呼んで差し支えのないものの居所を守ることが、すなわち神の存在証明であるとして良いのではないか、とか。