Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0108

 頭がつかれています。予定していたことがちっともやれていない。睡眠の質があんまり良くないぽいです。宮崎と東京の間の時間のズレに脳が戸惑っている感じがある。

 考えたことを幾つか。

 僕は木全体に秩序を見るけれどもそれぞれの枝には偶然性を感じ、その先に咲く花の対称性にまた秩序を見出すがしかしそれも細かく眺めれば花弁の筋にまた無秩序がある。僕はそういう構図を全部ぶち壊しにしたいと思う。

 前期ウィトゲンシュタインについて。Wikipedia独我論の項を引いたら、こんな記述がありました。

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』において、独我論実在論の完全な一致を主張したが、それは徹底した独我論であり、やはり上の意味での独我論者であるとは言えない。彼によれば、主観/客観の二項対立図式を前提にデカルト的コギトから出発する限り、世界の存在を証明することはできない。名の連鎖である文が真となるのは、文が事態の写像で、かつ、事態が現実に成立する場合である。現実に成立している事態とは、「意識と身体をもったウィトゲンシュタインがいる」というものである。身体と意識を分割したコギトという「意義」は現実に成立している事態と対応しない言葉の誤用にすぎない。現実に成立している事態と名が一対一で対応するのであれば、その事態について思想する主体が存在する。そのような主体が存在しなければまた世界も存在しないということになるからである。主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。独我論のいわんとするところは全く正しい。それは語られず示されるのみである。*1

この記述の意味をしばらく考えていたのですが、これはつまり、もし主体と客体とを分離して考えるならば、そのとき主体には対応する事態は仮定からして存在しないが故にその文はナンセンスであるが、しかしこの思考する主体を抜きにして考えることはできず、したがって主体と客体はここで一致する、という理解で良いのかな。でもこういう構図は言葉と論理の魔力にあまりにとらわれているように思われるし、実際その辺を批判しているのが、後期の思想なのだろうと思います。哲学探究においては、言葉は行為、身体の延長として回収されている。そこで彼の独我論がいったいどういうふうに描き直されているのかうまく把握できていないので、こういう問題設定をした上でもう一度読み返してみたく思います。しばらくはその時間はなさそうだけれど。青色本では、意識の持つ機能は、別の神秘的でない方法で実現できる(例えば、赤色の花を探せと命じられた時に、赤色を思い浮かべる代わりに、赤い布切れを持って行ってそれと色とを比較するというやり方も考えられるという話など)ということを言っていたように記憶しているけれども、しかしそこでは私が私であるということは徹底的にあちらがわへ追いやられたとはいえ、論究しようのない一点として残されている。彼はそれらをブラックボックスに入れてしまったのだろうか。もしそうだったとして、論考を誤りだとした以上、彼はそれが語りえないものであるとする根拠を持たないように思います。そのことについて彼はどう思っていたのだろうと考える。まあ著作をきちんと読めよという話になるのですが。
 私という不思議に対して、もはや言語と論理は特別な道具ではありえない、ということ。
 しかしニューラルネットのことを考えていると、言語を写像と考えるアイディアはなんというか理屈としてかなりいいとこいってる感じはしますね。

 Ask.fmに「とんでもなくつらいです。生まれてきたくなかった。」という質問(?)が来ていました。なんで僕に、と思いつつ少し考えてみたのですが、僕自身少し前まではそういう困難に悩まされていたように記憶しています。でそれに対して今の自分がどういう仕方で折り合いをつけているのかなと反省してみたのですが、結局過去と未来をこの自分から切り離して、僕に感じられるのは現在だけだというか僕が存在して何かを感じているということが現在なのだ、という捉え方を徹底することが、僕の現在の態度である、と言えそうだ、ということになりました。僕が今生きているのは過去に一個の名前としての自分が生まれたこととは関係なく、同様に未来において一個の名前としての僕が死ぬのは今を生きている僕とは関係がない、という態度です。もちろんこれは態度であって、哲学的な達成ではないし、過去と未来の連続を信じるのと同じ階梯に成立している枠組みであることは明らかなのですが、しかしこの枠組みを実感しようと思えばできるというあたりに付け入る隙があります(10月28日に書いた文章にその萌芽が見られます)。そこが今の僕の信仰の所在地ということになるのでしょう。