Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0114

 昨夜は日記を書いてから明け方までレポートを書いていました。課題自体は特に面白みのないものだったのだけれど、文体を円城塔の論文に似せて遊んでいたら存外に楽しくなってきて、わりあいすんなりと書き上がりました。まあ楽しかったのは書いている間だけで一眠りして読み返してみるとその出来の酷さにつらくなったのですが。相変わらず、考えたことを説明するのは苦手です。投げっぱなしにせず議論を展開するだけの思考力と粘り強さが僕に欠けているというのも理由の一端としてはあるのだろうけど、それ以上に、多少の不備には眼を瞑ってでも一つの主張を書き上げるだけの熱意みたいなものが僕にはないように思います。そもそも一つの考えを言葉の上に構築する以上、かならず反対意見を考えることが可能です。そしてそういうことを意識するとき、自分は何を書いているのだろう、何を書いたって無駄なのではなかろうか、と感じてしまう。正しくないことを書きたくない気持ちがあり、同時に世界と自分に対してもはや正しさを期待することをなかば諦めてしまっている感がある。だから、僕が気分良く書ける種類の文章は、自分の内心を吐露するものか、形式のみが意味を持つ冗談か、自分が主人公であるような物語だけになる。僕はそう思うんだけどね、ということを明示しない限り、言葉を発するたびに罪悪感に襲われるのです。罪悪感というのは言い過ぎかもわからない。ただ、ある種の居心地悪さのようなものは、人に何かを言うたびに、Twitterに書き込むたびに感じている。ああ、僕の言葉は全て嘘っぱちだ、嘘であるということすら嘘であるような嘘だ、つまりそれは、ただの鳴き声なのだ。それゆえ、言葉はすべて道端に落ちているバールのようなものとしてとらえるほかなくなってしまう。世界を描くのには向かないけれども、それが互いに武器として了解されている限り、他者を殴るだけの力を持つもの。そして僕はそんなものを振り回して悦に浸ることなんてしたくないのだ。そんなのは頭の悪い人がすることだと思う。ただの詩が、それに殴られうるようなつまらない人々のせいでまるで真理であるかのような顔をする。やはり人に問うべきではなかった、世界に直接問うべきだったのだ。せめてそうしておれば、愚かしくこそあれ、恥ずかしくはなかったはずなのに。
 途中から変に苛々してきて、支離滅裂な文章を書いてしまいました。つらい。こんなの全然明晰じゃない。明晰さってなんだ、道具として優れているということか。そんなのあまりに人間的じゃないか。なんで僕は人間なんだ、くそう。
 僕は発狂しかかっているのかもしれません。全体としての整合性に執着しすぎたというか、気の触れた世界に対して、まじめに応対しようと頑張りすぎたのではなかろうか。たぶん少し休んだほうが良いのですが、しかし僕は精神を休める方法を全然知りません。どうしたらいいのだろう?

 もし仮に真理が認識の対象として目前に提示されたとすれば、それを信仰するか否かの自由が僕の意図の前に開かれることになる。またその真理が有無を言わせぬ種類のものであるならば、それを認識することは先の理由の逆により不可能であろう。たぶんこれは、こういう仕組みの虚しさです。

 書き上がったレポートを提出するつもりだったのですが、締め切りが延期になってしまったので昨晩のがんばりは徒労になりました。いや徒労は言いすぎだけど、まあせっかく時間があるのでもう少し書きなおそうと思います。問題設定自体はそれなりに良い(うまく人を殴れるということです)ように思われるので。

 Qというゲームが話題になっていたのでぽちぽちやってみましたが、たぶんこの手の思考は僕がかなり得意とするものです。少し自尊心が復活。

 計算量理論の勉強を進めねばなりません。借りてきた教科書の返却期限も近づいているし。ゲームなんてやっている暇ないな。